うたかたラジオ

お代は“ラヴ”で結構です。

読書感想文が苦手だった僕が考える「上手な△の作り方」

世は夏休みシーズン。通勤電車も幾分か空いております。夏休み、いい響きです。

自分の過去の夏休みを振り返って思うのは、「もっと旅行をすればよかった」。これに尽きますね。近場でもいい、貧乏旅行でもいい。時間的精神的に余裕のある時期に思う存分旅行したかったですね。

 

 

夏休みと言えば宿題だ。学習ドリル、絵日記、自由研究、読書感想文。今回は最後に挙げた読書感想文について話すことにしよう。

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まず、僕は読書感想文があまり好きではなかった。今でこそ読書大好きで、進んでブログを書くほどに文章を書くことも好きだ。「1週間かけて書評してくれ」と依頼されたら、推敲を重ねて内容てんこ盛りの作品を作り上げたいとさえ思える。しかしながら、当時の僕は読書感想文に取り組むのが苦痛だった。

それはなぜか。読書感想文には正解がないからである。

例えば、算数の宿題ならば12×6=72だし、90÷18=5であって、これ以外の解答はありえない。

少なくとも、地球という惑星の現在の暦の上では一義的に解答が用意されているのであって、72でも5でもない答案には✖︎がつけられる。△というような曖昧な評価は存在しないのだ。

しかしながら、読書感想文の評価には△が存在する。存在するというよりも、基本的には△の評価のみで構成されているといえる。

仮に模範解答なるものが100点満点であるとすると、それと一言一句同じ答案でなければ理論的には100点にはなり得ないし、完全な正解(◯)ではない以上、99点も50点も1点も△と評価せざるをえない。

稀代の天才が読書感想文を書いて、一分の隙もない完璧と思える答案を用意したとしても、模範解答から外れているものである故、採点者の裁量により100点の評価を得ることは困難だろう。

逆に言えば、文字数の制限や文章の引用を読書感想文作成にあたっての縛りとして用意していなければ、ひと言「面白かった」或いは「つまらなかった」という答案に対しても0点(✖️)の評価をつけることができないだろう。読書をした感想がそこに含まれている以上、その言葉を完全に否定することはできないのだから、1点未満の数字はつかないはず。

この「正解がないものを作り上げる」という行為が、違和感だらけで積極的に取り組みたいとは思わなかった。

 

いつからこの違和感がなくなったのか。それは僕が大人になる過程で、「世の中、◯か✖︎かで割り切れない問題がいくつもあって、△の回答で処理することが◯の回答で処理するよりも穏便で妥当な解決を図れることが多々ある」と分かったからだ。

わかるようでわからないような例を出すが、気象庁の存在しない世界で、お天気お姉さんが独断で天気予報を出しているパラレルワールドがあるとする。その中のテレビ番組で明日の降水確率を告げる場面を想像してほしい。お天気お姉さんはこう言う。「明日の□□の降水確率は20%です。傘の準備はいらないでしょう」。もう一つのパターン、「明日の□□の降水確率は70%です。傘を持って出かけましょう」。

テレビを観ている視聴者の最大の関心事は、『雨が降るか降らないか』だ。それならば、降水確率は0%か100%で表して欲しいはずだ。ただ、それでは田舎から出てきたばかりで都内の1Kマンションで一人暮らし中の23歳彼氏募集中でパンケーキとトムヤムクン大好きなお天気お姉さんに悪いので、0%(自信を持って降らないと思う)、100%(自信を持って降ると思う)、50%(正直わからん)の三択を用意しよう。するとどうだろう。お姉さんは50%を好き好んで使うようになる。自信満々の笑顔で。僕もお姉さんと同じ立場に置かれたらそう言うにきまっている。世の中全て竹を破るようにスパッと言い切れないことがある。あくまで天気予報なのだから、断定的なことは言いたくないだろう。大自然を侮るでないぞ。

 

読書感想文もそうだ。ものの捉え方に正解も不正解もない。それでも採点をして優劣を付けなければ教育を実施することなんて到底できない。文学的で素晴らしいものも△で、「面白かった」「つまらなかった」も△だから同列に扱うというわけではない。真円に近い△が評価が高くて、角ばるほどに〇から遠くなる。便宜上序列をつけるのが集団の在り方であって、それが教育だと思う。

 

正解なんてないんだぞー、でもできるだけ万人を説得できるような読書感想文を書いてみてくれ。指標としてはそれで十分だ。真円に近づけようとすることと一義的に用意されている〇を差し出すことに大きな差はない。

 

僕たちは知らぬ間に上手な△の作り方、世渡りの方法を学んでいるのかもしれない。