『未来のミライ』を観てきました。
監督である細田守氏の作品としては、『時をかける少女』や『サマーウォーズ』があまりにも有名すぎて、地上波でも繰り返し放映されています。
さてさて、今回はこの『未来のミライ』をネタバレを存分に散りばめつつ、レビューしていこうと思います。これから見ようと考えられている方はご注意です。
愛ゆえのネタバレレビュー
はじめにざっくりした感想
僕は細田守作品が昔から好きで、『時をかける少女』は10回は観たし、背景監督である山本二三氏の画展に行くくらいにお気に入りの映画である。
↑この記事でも「時かけ」談義を始めるところだったが、無事カップヌードルに不時着した。
だからこそ今回は、この『未来のミライ』という公開間もない作品についてネタバレを厭わずレビューをしていきたいと思う。
結論から言えば、「ガッカリの出来だった」。単純につまらないというよりも、「作品にする意味はあったのか?」という原初的な問題に話が発展してしまいそうな、非常に空虚なものだったというのが正直な感想だ。
↑このPVは面白そうなのに。
ミニマムな世界で展開されるストーリー
この作品の登場人物は基本的に一つの家族及びその親族のみであり、非常にミニマムな世界設計である。
主人公の男の子くんちゃん(上掲画像の左の男の子)、その妹のミライちゃん(同じく上掲画像の左の女の子はタイトルにもなっている未来のミライちゃん)、お父さん、お母さん、母方のおじいちゃん、おばあちゃん、(曾じいちゃん、曾ばあちゃん)、あとはペットの「ゆっこ」。
曾じいちゃんと曾ばあちゃんはくんちゃんの空想世界(?)の中に若かりし姿が描かれているのみ。
さすがくんちゃん。あざとい。
飾らない日常を描いているが・・・
どこから語ろうか。うーん。
まずは作品の平坦さについて。作品に盛り上がるシーンがないのが逆に印象深い。
ストーリーのあらすじとしては、くんちゃんは産まれてきたばかりの妹であるミライちゃんにお父さんとお母さんの愛情を横取りされてしまい、なんとか注意を引こうと反抗的な態度をとったり、癇癪を起したりする。
その際に、建築家であるお父さんの影響と思われる独創的な家の中庭部分で不思議なことが起こり、くんちゃんはゆっこが擬人化した姿や成長して大きくなったミライちゃん、過去のお父さんやお母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、ひいじいちゃん、ひいばあちゃんに会う。
そこで家族との絆に触れて少しずつ大人になっていくという流れだ。
家族愛という極めて王道で、調理しがいのあるテーマなのだが、いかんせんシーンの一つ一つが薄味すぎて作品全体を通して平坦さが拭えない。
そもそもそこまでフォーカスしなくてもいいところに尺を割き、「伏線があるのかな?」「回収されるのかな?」という部分について一切言及されないので、肩透かし甚だしい。
前者の例としては、「ゆっこを擬人化させる意味があるのか?」とか「お母さんが怖いというのを繰り返しの同じ表現で強調する必要はあったのか?」とか「そもそも何でミライちゃんが出てきたのか?」等々謎が多く、その意図も明確でないため、一つのパーツとしての完成度が低いと言わざるを得ない。
その結果のくんちゃんの成長も「成長したのかな?してないのかな?」という程度であり、しかも成長が蓄積されないシステムなようで、シーンが変わればしょうもない癇癪を起すというループ。レベルは蓄積しない。
ここで名作の名前を出すのは気が引けるが、『風来のシレン』システムと名付けよう。
シーンの一つ一つが薄く、それら同士のつながりも希薄なため、本当に一人の監督が携わったのかとさえ思えてくる。
そして、後者の例として、いかにも意味ありげな「ひな人形をくんちゃん、ゆっこ、ミライちゃんが必死の思いで片づけるシーン」も今となっては意味不明であるし、どこにもつながっていないのは残念である。
途中一切触れられなくなったが、特殊な家の構造も何かしら活かせただろうに。ミライちゃんの手の痣も何の広がりも見せないし、成長したくんちゃんのあのちょい役ももう少しストーリーに絡ませてあげられなかったのか。本来ならば盛り上がるべきシーンの「ミライちゃんのお兄ちゃんだ!」も言わされた感満載だ。
作品の良い点を褒める
これ以上悪い点を書いても仕方がないので、良かった点を書くことにする。
1.ひいじいちゃんがカッコいい件について。
ひいじいちゃんは戦争で右足に後遺症を負い、バイクの整備工として生きていくのだが、その生き様がいちいちカッコいい。
戦争の回想シーンで虚空を睨みつけ叫ぶシーン、生命に渇望して足を負傷しながらも懸命に海を泳ぐシーン。
「ひいばあちゃんと駆けっこをして自分が勝ったら結婚してくれ」からの、じいちゃん足を引きずりながらも渾身の走り。それを見守り立ち止まるばあちゃん。じいちゃんの「結構走るの早いな。なんとか勝てたけどな」という粋なプロポーズとそれに微笑んでしまうばあちゃん。
ひいじいちゃんとひいばあちゃんのデート日記に移行してくれた方がよほど有益な時間を過ごせただろう。
ちなみにじいちゃんが出てくるのは最後の30分くらいからなので、じいちゃんを観たい方はそれまで我慢してください。
2.「失くしたものはものは自分自身ですか?」
作中のほぼラストに近いシーンでくんちゃんが空想世界の東京駅構内で迷子になり、迷子の呼び出しをしてもらうところ。
呼び出しをしてもらうためには、迷子の名前と引き取りに来る人の名前がわからなければならない。
「どこの誰」が明確にならなくてはならない。
当然「くんちゃん」という自分の名前は即答できるが、意外にお父さんお母さんの名前が出てこないことは子供あるあるだ。
お父さんとお母さんの名前がわからなければ家族のつながりが分からず、呼び出しはしてくれないそうだ。
自分自身を実証するのは確かに難しい。本人確認と言えば「運転免許証」だとか「パスポート」だとか色々あるが、それはあくまで表面的なものであって、そういった公証力のある物理的なものに頼らずに「自分」を証明することはできるだろうか。
「自分とは何なのか」という究極の哲学を不意に投げかけられるシーンは興味深かった。
求められている解答は単純にお父さんとお母さんの名前だったけれど、自分以外の他者とのつながりのみが自分を実証する唯一の手段なのだろうかと考えてしまった。
この2つのシーンが最後の最後に組み込まれているので多少は「救われた感」があるが、物語の山はもっといくつもバランスよく設置しないと飽きてしまう。
総括
「時をかける少女」も「サマーウォーズ」も夏を舞台にした作品で、見終えた後の清涼感は素晴らしかった。
青空が目に浮かぶような。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むような。「未来のミライ」にはそれが全く感じられなかった。
細田守作品というハードルがなければ、日常ものとして好意的に受け入れられたのだろうか、それはわからない。
事前に中身は見ていないものの、作品のレビューというか点数評価は知っていたので嫌な予感はしていたが、なるほどなと思った。