『早い、うまい、安い』
牛丼の吉野家のキャッチフレーズですね。三拍子揃った飲食店を表す言葉として、これほどテンポよくわかりやすい言葉はないです。「牛丼一筋80年」のCMを放送してた1970年代は上記だったそうですが、
『うまい、早い、安い』
↑1980年代にはこうなり、
『うまい、安い、早い』
↑2000年からはこちらを採用して、現在に至っている。
創業1899年の吉野家が時代の要請に合わせて変化している様がわかります。
今の時代にひとつ要素を足すとするならば、『安全』なのでしょうね。どこに入るだろうか。個人的には一番重要だと思うので、
『安全、うまい、安い、早い』でしょうね。
キャッチコピーの変遷を調べていると、自然と吉野家の歴史が目に入ってきます。俄然興味が湧いてきたので、ちょっくら吉野家第一号店を訪ねて築地市場に行ってきましたよ。
いざ、築地市場
漂う魚のかほり
ホームに降りた途端漂う魚の香り。生臭い。間違いない、ここが築地市場だ。奇しくも大江戸線か。伝説(自称)の光が丘放浪が思い出される。
改札を出ると浮世絵がお出迎え。浮世絵師なんて葛飾北斎、歌川広重、菱川師宣くらいしか知らないので、この3人から外れてしまったらお手上げである。
どうやら片岡球子さんという方が描いた『国貞改め三大豊国』(上)と『浮世絵師勝川春章』(下)というパブリックアートらしい。
駅の内装はどこもあまり面白みがないし、面白くある必要性も薄いように思えるが、こういう綺麗な絵が描かれていると、ついつい立ち止まって見たくなってしまう。素敵だ。
人でごった返す路地を行く
大江戸線特有の長い階段を登り、地上に出る。天候は曇り時々晴れ。気温は30℃程度である。
早速吉野家一号店を目指し築地場内を目指すが、とにかく人が多い。
覚悟はしていたけれど、外国人の観光客の方が多いし、だいたい立ち止まって談笑しているか牛歩である。全然前に進めなくて、人混みで暑い。
本当は道端の飲食店や築地市場の各種施設を写真に収めておきたかったが、あまりの人混みと暑さでそれは断念。足早に築地場外を抜け、吉野家に向かう。
絶え間ない人通りを避けたベストショット。こちらが築地市場内にある吉野家第一号店である。
吉野家の歴史を概観
はやい、やすい、うまい
鮮やかなオレンジ色の暖簾の上に掲げられた看板に刻まれた『はやい、うまい、やすい』。これが見たかった。
元々の第一号店は日本橋の魚市場にあった。
(出典:吉野家公式ページより)
魚市場の仕事は重労働で、始まってしまえば食事に割く時間がない。そこで当時の高級品だった牛肉を使って、腹一杯に掻き込んで食べられる牛丼を売り出した。
確かな味と手軽さから市場の職人たちの心を掴み、売り上げを伸ばしていった。
震災によりゼロからの再スタート
(出典:吉野家公式ページより)
関東大震災に伴い、魚市場も築地に移転。ゼロからのスタートになったが、誠実な経営により吉野家の牛丼が人々の生活に根付いていく。
その後、1945年の東京大空襲により店舗を焼失した吉野家だったが、戦後すぐに屋台で商売を再開する。戦後間もなくの食材も十分に確保できない状況で、またゼロからのスタートである。
何度でも蘇り、人々の舌と心を魅了していく。店舗数も拡大し、事業は急速な上り調子にあった。
その一方で国産牛肉の安定供給が課題となったが、吉野家の牛丼と米国産の牛肉の親和性があることを発見。国産のものに混ぜ込んで牛丼を提供し続けた。
最悪の経営判断を迫られる
しかし、時代は牛肉輸入自由化の前。増え続ける店舗及び牛丼需要に輸入できる牛肉量が追いつかなくなってくる。そこで輸入制限のないフリーズドライ牛肉にも手を出したが、それでも牛肉の確保が困難な状況。
ここで顧客の来店頻度を落とすため、「値上げ」という最悪の経営判断を下さざるを得なくなった。
会社更生法適用
当然売り上げは減少し、これに重なる形で急速な店舗拡大による資金繰りの悪化が回復不能な状況に陥ったことから1980年7月に会社更生法による手続きを申請。
(出典:吉野家公式ページより)
立ち上がれ、吉野家
1991年、牛肉の輸入が自由化。再起をかけた吉野家にはこれ以上にない追い風となる。吉野家は急速に息を吹き返し、店舗数と加速度的に増加していく。
そして、吉野家の当初のコンセプトに原点回帰すべく、2001年に牛丼の大幅な値下げに踏み切る。並盛400円から280円。
このインパクトは凄まじく、「牛丼は安い」というイメージを人々に植え付ける。一旦上げた価格を下げるというのは非常に勇気のいるところであるし、何度も瀕死状態を味わった吉野家にとってはまさに命懸けの判断だったであろう。
(出典:吉野家公式ページより)
価格大改定は成功。サラリーマンや若者たちのニーズを見事に満たし、ぐんぐん業績を上げていく。
BSE問題勃発。吉野家が最後まで守り抜いた信念は・・・
ここでさらなる危機が発生。米国牛のBSE問題である。米国牛のBSE感染が疑われ、輸入が不可能に。他の牛丼チェーン店である松屋やすき家は牛丼以外のメニューを充実させていたり、豚丼を導入していたりと牛丼以外の販路での事業の継続が可能であったため、吉野家ほどのダメージはなかった。
あくまで牛丼にこだわる吉野家は、数少ない牛肉を少しでも多くの人に食べてもらうため、営業時間の短縮や特盛りの販売を中止。その涙ぐましい努力にも限界が訪れる。
2004年2月11日、吉野家から牛丼が消える。
吉野家は生き残るべく、牛丼の代打として豚丼を起用。細々と経営を維持していく。牛丼にこだわり続けた吉野家にとっては、まさに苦肉の策であっただろうが、牛肉の代用として豚肉に頼らざるを得なかったのだろう。
悲劇から一年後の2005年2月11日、吉野家は米国の安全な牛肉の在庫をかき集め、一日限りの牛丼復活。人々は一時的とはいえ復活した吉野家の牛丼に酔いしれた。
オレを甦らせる。何度でもよ。
そして2006年、牛肉輸入自由化。
おかえり、吉野家。
(出典:スラムダンクより)
総括
正直この歴史を知るまでは、「牛丼一筋って言う割には色んなメニューに手を出してるじゃないか」と思っていたが、調べてみると十分すぎるほどに牛丼一筋だった。
牛丼以外のメニューもあるけれど、確かに吉野家イコール牛丼であって、その軸はぶれない。他の牛丼チェーン店を貶めるつもりもないし、今回吉野家をフォーカスしたからといって吉野家上げをしたいわけでもない。
やはり知らないことを調べるのは面白い。少なくとも吉野家を見る目が変わったのは事実である。
歴史語りに熱くなってしまったが、肝心の吉野家第一号店の牛丼はどうだったか。
プラシーボかもしれないけれど、あえて言う。
覚悟と選択を積み重ねた時代の重みを感じる日本が誇る牛丼屋の牛丼だった。