「涼しくなってきたら鰻を食べに行こう」
そう考えていたのに、涼しくて過ごしやすい秋はあっという間に過ぎ去り、季節は冬。今年は鰻食べてないなーとふと考えたのです。
冬に鰻を食べてはいけない理由など何一つないのに、意外と冬に「鰻食べたいっ!」とならないのが不思議です。寒くなると他にも魅力的な料理がたくさん出てくるからでしょうか。
さて、そんな今回は『うなぎの丸かじり』のご紹介。
『うなぎの丸かじり』
2010年上半期の出来事
この本が文庫化されたのが2010年7月10日。2010年下半期の出来事を振り返ってみよう。
7月
・第22回参院選が実施され民主党が惨敗、自民党が勝利し、参院の民主党が106議席、自民党が84議席に、与党が過半数に届かないためねじれ国会へ
8月
・イラク駐留アメリカ軍の戦闘部隊が全て撤退完了
9月
・尖閣諸島中国漁船衝突事件
10月
・ アメリカ合衆国のワシントンD.C.でG7主要国財務相・中央銀行総裁会議
・ G20財務相・中央銀行総裁会議、開催
・ 欧州連合 (EU) 首脳会議、開催
11月
・アメリカ合衆国連邦準備制度理事会 (FRB) が、6000億ドルの追加の国債買い入れを決定
12月
・日本の金星探査機「あかつき」が金星に到達
2010年下半期の出来事に対して特にコメントすることはないが、この年の終わった約2か月半後に東日本大震災が起こっている。
あの頃僕はまだ学生だったが、世の中の大きな転換期になるんだろうなと心の底から感じたことを覚えている。
【カレージルが足りないッ】p.52-
カレージル。さだお氏はカレーライスのライスの上に掛かっている❝アレ❞をカレージルと呼んでいる。
僕は既にさだおイズムに染まっているので、「カレージル」という表現が馴染んでいるが最初は違和感があった。汁?・・・なのか・・・と。
僕はこれまで五十年間カレーを食べてきた。
その五十年の間 、ただの一度だって、
「ああ、きょうはカレーのシルが充分だった。余っちゃった」
という経験がない。
いつ、どの店で食べても、カレーのシルが足りなくて足りなくて、どんなにつらい思いをしてきたことか。
カレーを注文してカレーが到着していつも思うことは、
「この少ないシルをどうやりくりして無事にこの食事を終わらせようか」
ということである(p53-54)。
ここまでカレーライスについて苦悩を重ねてきた男なら、ライスの上に掛かっているものを「カレージル」と呼んだっていいじゃないか。カレー神様もきっと許してくれるよ。
確かに最後にカレージルだけをスプーンですくって何回も口に運ぶということはしたことがない。終盤にかけてカレージルとライスの配分に注意しながら食べても、大体最後はライスが残るのだ。
最初の一口にたっぷりとシルをかけて、あー、いけない、多すぎた、と反省し、次の一口は倹約しなきゃ、と、うんと少ないシルで食べてやっぱりうまくないや、と、反省し、福神漬けで間を持たせようと福神漬けで何口か食べ、まてよ、福神漬けばかりこんなに食べちゃ、後半、本当にシルがなくなったときに困るじゃないか、と反省ばかりしている。
一口食べてはビクッ、二口食べてはビクビクッ、この飽食の時代に、不足に怯えながら食べる食事なんて、カレーくらいのものだろーが(p.54)。
本来ならば、このように読点でいくつも繋いだ長文は文法的にアウトだろうが、さだお氏の手に掛かればこの通り。読みやすくて疾走感のある文章になる。やっぱりプロは凄い。
そうそう、福神漬けブーストをかけてもまだカレージルが不足するのだ。ライス大盛りを注文できるカレー屋は多いけれど、カレージル大盛りを取り扱うカレー屋が少ないこと少ないこと。
「ない」と断言しないのは、僕の行きつけのカレー屋ではカレージルの大盛りがメニューに入っているからだ。
まぁ、さだお氏が言いたいのは、シルの大盛りで胡麻化すんじゃなくてデフォルトでシルを十分によこせということなのだろう。わかる。わかりますぞ。
【エビ様と私】p.184-
天丼とは難儀な食べ物である。カツ丼であれば、等分に切られたカツを一口かじってご飯をかき込めばいい。親子丼は卵と鶏肉のぐじゅぐじゅしたところをすくってゴハンと一緒に食べればいい。
しかし、天丼は違う。天丼の上に載っている天ぷらには、明確な序列が存在する。エビ、魚、貝、野菜。様々なネタがある分、自体は錯綜する。
一体どこから食べたらいいのか。これは人類七不思議に一つにも数えられるテーマである。
いざ食べようとしたとき、ふと思ったのだが、いきなりエビにいく人って世の中にいるのだろうか。
ふつう、天丼はまずエビ、そしてイカとかキスとかアナゴ、それから野菜になってナスとかシシトウとかカボチャという構成になっている。
地位的にいうと、エビがナンバーワンで、イカ、キス、アナゴなどがナンバーツー、野菜系はその他大勢という順位になる。
ぼくの場合は、いきなり一位のエビにいくということはない。
これまでの生涯で一度もない(p.184-185)。
まずはシシトウあたりをひとかじりして、イカにちょっかいを出してから、一瞬エビに手を出そうかと逡巡するが、ナスもひとかじりして、満を持して「どれどれ・・・」とエビを食べてみる。
僕が天丼を食べるときはおおむねこんな感じだ。
最初ナンバーツーのイカとかキスあたりを一口食べ、二口目でやっとエビにいくかというとそれもいかないでその他大勢の野菜にいき、ようやく三口目で、サテ、とか、デハ、とか、イヨイヨなどと、心の中つぶやいてからエビに取りかかることになっている (p.186)。
わかる。天丼を食べるという行為は、ある意味❝儀式めいた❞ものなのだ。
常にエビのことは念頭に置いている。念頭に置いてはいるのだけれど、最初にかじるのはあまりにも恐れ多く、周りの家来どもに一発お見舞いしてから対面したいものだ。
↑絶対にエビを最初に食べてやるんだ!という人がいたとしても、それはその人の儀式なのだ。天丼は全てを許容する。
このときの心境を自己分析してみると、本当は"いきなりエビ"が望みなのだが、我慢してイカにいくというのではなく、食事全体の流れを考えるとこうなるのだ、と言いつつももう一つ突っこんで本心を明かせば、エビにいきたくないわけねーだろ、ということになる(p.186)。
願わくは、本丸攻めなのだが、かといってエビしかない天丼だと、それはそれで戸惑う。
野菜があり、魚があり、エビがいる。なんだかんだで明確な序列が存在する天丼のバランスが心地いいのだ。
総括
本作は、身近な食べ物を食べるときの儀式めいた行為やお作法について、さだお氏なりの考察を加えたお話が多いように感じる。
上述の二つの他にも『鰻重の作法』、『人それぞれの儀式』、『茶碗蒸しの正しい食べ方』、『再び世に問う柿ピー問題』などが挙げられるだろう。どれも唸らされる出来の秀作なので、是非読んでほしい。