久々の書籍レビュー。大体年2回刊行される、当ブログではお馴染みの東海林さだおさんの「丸かじりシリーズ」です。
待っていましたよ、『シウマイの丸かじり』。
↓前回の丸かじりはこちらから。
今作も安定の面白さで一気読みさせていただきました。
数年前の一時期(文庫で言うと「レバ刺しの丸かじり」辺り)、文章が❝東海林さだおさんらしくない❞と感じることがあり、ファンの1人として勝手に心配していたところですが、今ではそれが全くの杞憂であったようで安心しております。
いつまでもお元気で、世界で唯一無二の食エッセイを書き続けていただければこれほど幸せなことはありません。
さて、ちょっとだけしんみりしたところで『シウマイの丸かじり』で特に感銘を受けたお話を取り上げて書いていこうと思います。
『シウマイの丸かじり』
【牛肉弁当、シウマイ弁当と化す】p.95-
今までの作品の中でも何度も触れていることだが、さだお氏の年中行事のひとつに「新宿の京王デパートで開催される❝元祖有名駅弁と全国うまいもの大会❞詣で」というものがある。
家に居ながらにして駅弁が食べられる、なんとも便利な時代になったものだ。
もちろん旅行に向かう新幹線の中で食べる駅弁が一番美味しいし、駅弁としても「是」と思っていることだろう。
いやいやしかし、家で食べる駅弁というのもなかなか乙なものだ。
『牛肉弁当、シウマイ弁当と化す』は、いつものようにさだお氏が京王デパートに駅弁を買いに行くところから始まる。
最近の駅弁のトレンドはわからないが、当時(2015年頃)は牛肉をメインに据えた「牛肉ど真ん中」や「神戸牛めし」などが流行っていたようで、さだお氏もこれらを狙ってデパート内での押し合いへし合いに身を投じていくのであった。
チラシで煽っているせいか、特に牛肉弁当関係の売り場は長蛇の列でモー大変。
行列に並んでいる人々は全員全身牛肉人間であるから顔もすっかり牛の顔になって殺気立っている。
ひとたび並べば一時間は覚悟しなければならない。いや、一時間どころではないかもしれない。(p.97)
静かに本でも読みながら待てるならいいけれど、鼻息の荒い全身牛肉人間に囲まれながら一時間以上待つなんて拷問もいいところだ。
そこでさだお氏は方向転換を試みる。
そのとき眼前に、おなじみの横浜駅の「シウマイ弁当」の売り場があるのに気がついた。
行列なし、買おうと思えばすぐ買える。
「これだ!」と思った。
牛肉からシウマイへ。
そこには何の関連もない。
その経緯を説明しろ、と言われると困る。
時刻は午後一時四十分。
腹が減っていたのだ。(p.98)
労せず買えたシウマイ弁当を食べつつ、買えなかった牛肉弁当に対する想いを断ち切ろうとするさだお氏。
確かにシウマイ弁当は美味しい。当ブログでも崎陽軒のシウマイ弁当の魅力を語ってきた。
www.utakata-radio.com
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北斗七星の如く弁当の将来を明るく照らす主役のシウマイを始めとして、もちもちに炊きあげられて絶妙な水分を保持した俵型のご飯、程よい味付けの鶏の唐揚げ、風味豊かでご飯が進むマグロの照り焼き等々。
食感や色味、味付けの全てにおいて人間の心理を十分に理解し寛容するお弁当の優等生である。
しかし、年に一回のお楽しみイベント終了後にさだお氏は悪い知らせを聞く。
シウマイ弁当は京王デパートに年中売っている。
【グリンピース、コロコロ】p.101-
何故だか分からないが、身の回りにグリンピースが嫌いな人が一定数いる。
日常生活を送る中でそれほどグリンピースに遭遇する機会は多くないと思うし、一度に何十粒も食べるものでもないので、「別に避けなくても・・・」と個人的には思うのだが、嫌いな食べ物に対する態度というのはそういうものなのだろう。
出前でカツ丼を注文すると、決まってグリンピースが載っている。
グリンピースがあることでカツ丼の味が劇的に変わるということはないし、食感としてもカリッとしているわけでもないし、サクッとしているわけでもない完全な彩り要員として採用されていることが伺われる。
しかし、カツ丼にグリンピースがあるのとないのとでは食べる心持ちに大きな影響がある。
グリンピースがのっかっていないカツ丼は事務に近い食事になるが、のっかっているほうのカツ丼は急に遊び心が生まれる。
カツの上の六個のグリンピースはあっちに転がり、こっちに転がり、あるものはカツの上から転がり落ちてカツとゴハンの隙間のところにはさまっている。
そうか、この一個転がり落ちてしまったか、そうか、などと思いつつ、その一個を箸でつまみあげてみんなといっしょの正規の場所に置いてやる。(p.102)
このさだお氏の表現に着目する点は3つある。
①グリンピースがのったことによって遊び心が生まれるカツ丼
②グリンピースは六個
③グリンピースの「正規の場所」
そうそう、「遊び心」というものが計算され尽くした人為的なものではなく、まさにトンカツ屋のおやじの気まぐれ。
きっと「あっち向いてポイポイ」的なニュアンスでこの世に生み出された芸術なのだろう。
そして不意に「カツ丼の上のグリンピースは何個が見栄えがいいか」と質問されたら、たぶん5,6個という回答になる。
1個じゃ寂しいし、2個もバランスが悪い。3個だと三角形という法則性ができてしまうし、4個も規則性が出てしまう気がする。
5個・・・うーん、6個のうち4個はカツの上にいて、1個はカツとゴハンの間、最後の1個は丼の端の方に転がっているなんていう状況が理想かもしれない。
最後に「グリンピースの正規の位置」。これはさだお氏がノーベル賞ものの考察を加えているので注目だ。
散らされたグリンピースはカツの上で勝手に転がっていって勝手に止まっただけ。
それなのに、ここが大切なところなのだが、それぞれが勝手に転がっていって勝手に止まった位置が常に正解。
全回正解。
常に正位置。
トンカツ屋のおやじが毎回何の考えもなく散らしても正解。
「この散らし方はちょっとなあ」
と思ったことが一度もない、という不思議。(p.105-)
人生の「勝ち組」だとか「負け組」だとかいう尺度で人の生き様を数値的に、あるいは序列的に考える人もいるが、グリンピースのカツ丼の生き方はなんと快活なことか。
転がりついた、その場所が常に正解。人に決められる人生ではなく、自分で決める人生。
グリンピースに学ぶことは多い。
【上司との昼めしに、焦る鴨南】p.176-
「待つ」と「待たせる」はどちらが楽か。
どちらも辛いので判断に困るのだが、しいて言えば「待たせる」方が辛い。
今回問題になるのは、会社の上司と昼食を食べるために蕎麦屋に入ったという事例。
上司は天ぷら蕎麦、自分は鴨南蛮蕎麦を注文する。
上司の天ぷら蕎麦が先に提供され、
「どうぞ熱いうちに・・・」「うむ。」
そんなやりとりの後に上司は蕎麦を食べ始める。
天ぷら蕎麦を食べ進める上司。食事も佳境に入ってくる。
おいおいこのままじゃ食べ終えてしまうぞというタイミングで鴨南蛮蕎麦が供されることになるが、時すでに遅し。
上司は天ぷら蕎麦を平らげる直前であり、対するこちらは鴨上質な脂でツユをコーティングされた熱々の鴨南蛮である。
なんとか上司の食事と帳尻を合わせようと急いで食べようとするが、熱すぎて食べられない。
いまや丼のフチに口をつけたっきり、麺をすすり、ツユをすすり、鴨を噛み、また麺をすすり、ツユをすすり、丼を口から離していったんテーブルに置く、などということは考えられない。
鴨を噛み噛み、上目遣いに上司を窺う。
あ、上司、シーハしながらこっちを見ている。
もはや死にものぐるいである。
額から汗。全身も汗びっしょり。
今や蕎麦丸のみ、鴨でさえ丸のみ。
あ、上司、腕時計をチラと見た。
明らかに相手を待たせている。
相手は明らかに待っている。
待つ身が辛いか、待たせる身が辛いか。(p.179-180)
注文する前はあれほど魅力的だった鴨南蛮蕎麦が、今は悪魔にしか見えない。
上司の待ち時間を少しでも減らすために、味わうこともできない鴨南蛮蕎麦を事務的に食べる。
これが上司の奢りである場合には事態は錯綜する。彼の顔をチラチラ伺いながら、美味しそうに食べなければならない。
やはり「私も同じものを」が無難な回答だったのか。
さて、待たせる方が辛いとかいたが、自分が待つ方になっても辛いものだ。
事例の上司と自分の立場を逆転させてみよう。自分は天ぷら蕎麦をもう食べ終わりそうだが、上司のところには熱々の鴨南蛮蕎麦が到着したばかり。
なんとか上司と食べ終わる時間と近接させるために食事のペースを落としつつ、不自然にならないように。いかにも「あんた待ってるんやで」オーラを出さないように。
会話で間を持たせたいが、それでは上司が進軍する速度が落ち、結局自分の首を締めることになる。
ツユを恭しくすくってゆっくり飲んだり、丼の底に沈んだ蕎麦の残骸をかき集めたり。
「蕎麦食べてたら汗かきました」などと当たり障りのない言葉を発しつつ、(冷や)汗を拭く。
こんな思いをしながら食べる食事が美味しいわけがない、
やはりここでも「私も同じものを」が正解だったようだ。
まとめ
今作も納得の連続で、「わかるわかる」と頷きながら読み終えてしまった。
さだお氏が取り上げる食べ物は、どこでも誰でも食べられるような庶民的なものが多い。
時々何万円もするような高級料理や高級食材が登場するが、これにも持ち前の探究心で等身大にぶつかっていくところに安心感がある。
産地がどうだとか、栄養素がどうだとか堅苦しい話は無しで食をひたすらに楽しむ姿勢が素晴らしいと思う。
↓過去の丸かじりシリーズ書評はこちらから。