AmazonPrimeVideoで『この世界の片隅に』を視聴しました。
一時期話題になったときに気にはなっていたのですが、いつか観ればいいかと映画館に行くまではしなかったんですよね。
視聴を終えた今思うと、非常に勿体なかったと感じます。
内容は素晴らしく、話の展開も見事であり、劇中及び劇後に考えさせられる重厚なテーマ。
映画という娯楽は消耗品で、一度人々の心を沸かせば、その大部分は過去になっていく。
その時の試練を超えた映画が「後世に遺したい映画」「いつまでも語り継がれる映画」として何度も何度も人の目に触れることになります。
『この世界の片隅に』は、まさに50年後、100年後もそうあるべき映画だと思います。
『この世界の片隅に』
あらすじ
18歳のすずさんに、突然縁談が持ち上がる。
良いも悪いも決められないまま話は進み、1944年(昭和19)年2月、すずさんは呉へとお嫁にやって来る。
呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の町として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。
夫の両親は優しく、義姉の径子は厳しく、その娘の晴美はおっとりしてかわいらしい。
隣保班の知多さん、刈谷さん、堂本さんも個性的だ。
配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日の暮らしを積み重ねていく。
ある時、道に迷い遊郭に迷い込んだすずさんは、遊女のリンと出会う。
またある時は、重巡戦艦「青葉」の水兵となった小学校の同級生・水原哲が現れ、すずさんも夫の周作も複雑な想いを抱える。
1945年(昭和20)年3月。
呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。
それでも毎日は続く。
そして、昭和20年の夏がやってくるーー。
戦争を題材にしたアニメ映画といえば、多くの人が口を揃えてこう言うだろう。
『火垂るの墓』
8月の半ば頃になると毎年と言っていいほどにテレビ放映される往年の作品である。
1988年公開ということなので、まさに平成を駆け抜け30年間人の心にメッセージを与え続けている。
戦争映画を語るに際してはこの作品抜きに語ることはできないだろう。
もっとも、『この世界の片隅に』は、従来の戦争映画とは一線を画するものであると断言できる。
戦争を日常から完全に分離して背反し合う関係とはとらえず、あくまで人々の❝普通の生活❞があって、そこに突如介入する存在として描き出されているのだ。
すなわち、「戦争によって命や身体や心が死んでいく」ということを直接的には描写せずに(戦争による死者は不可避的に登場することにはなるが)、主人公の❝すず❞が流されるままに嫁いだ呉の家での当たり前の日常をメインに据え、戦争はこれを脅かす存在として随時割り込ませていくという位置づけだ。
すずは鈍くさくてぼーっとしていて、お世辞にも器用とは言えないし、田舎育ちでのんびり生きてきたため世間の道理にとんと疎い。
家でも「そんなんじゃお嫁にいけないよ!」と馬鹿にされていたのに、どこの物好きか、すずを見染めたという男・周作の家から縁談が持ち上がる。
自分で何かを選択するわけでもなく、流されてのんびり生きてきたすずは、この大事な局面もなんとなく流れに身を任せて呉の周作の家に嫁ぐことになる。
知り合いが誰もいない状況でも嫁の務めを全うしようと、山菜を摘んできてはこれを調理して家族に振舞い、不器用ながらも着物を普段着に仕立てて着てみたり、大好きな絵を描いて過ごしたり・・・。
当時も現代のような自由恋愛は存在したのだろうけれど(義姉の径子はまさにそれ)、すずのように突然結婚を前提に縁談を持ち掛けられて嫁いでいくというパターンが多かったのだろう。
それは主に❝家事労働力の確保❞や❝跡取りを授かる❞といった色彩が強く、「男は仕事をして家族を守れ、女は家事をして家を守れ」という思想が根強くあった時代ならではの合理的な指針だったに違いない。
全くの他人であり、好きも嫌いもわからない周作と結ばれ、物資もなく不自由な生活ながらもいつもニコニコ前向きに家事に励んで家を守るすずの姿はなんとも健気で愛らしく感じられる。
この作品では、❝すずの日常❞というものが中心にあって、戦争を完全なる❝非日常❞と位置付けていない点で従来の戦争映画と毛色が違うといっていい。
印象に残ったシーン・セリフ
「傘を一本持ってきたか?」「はい、新なのを持ってきました」
すずが正式に周作の家に嫁入りするときを想定して、おばあちゃんがすずに送った助言である。
❝結婚初夜❞に男の方から「傘を1本持ってきたか?」と聞かれたら、「はい、新(にい)なのを持ってきました」と答えなさい、と。
すずは何故そのようなことを言うのか分かってはいなかったが、結婚初夜に周作の口から出たのはその通りの言葉だった。
すずは「はい、新(にい)なのを持ってきました」と答える。
いわゆる❝お約束❞。❝儀式❞である。
時間をかけて好きあった者同士で結ばれるならば、こんなにまどろっこしい問答は必要ないかもしれないが、「ほぼ他人」というぎこちない関係のなかで❝そういうことをする❞にはスムーズな合言葉が必要だったのかもしれない。
実際は周作は本当に傘を必要としており、すずから借りた傘を使って軒下の干し柿を引き寄せ、これを2人で食べるシーンが描かれている。
これは観ている人間を「おっ」と思わせる上手い演出だと思うし、すずと周作は無事結ばれて夫婦となった。
闇市と遊女のリン
貴重な調味料である砂糖をアリの侵略から守るため、水がめに桶を浮かべて、その上に砂糖の壺を載せるすず。
しかし、憐れ砂糖の壺。バランスを崩して水の中に沈んでしまう。
義母は「闇市で買ってきなさい」とへそくりの20円を差し出し、すずはこの大金を持って闇市に向かう。
そこでは禁制品が当然のように取引されていて、本当に今は戦争中で物資が足りていないのか疑問に思うほどの盛況だ。
すずはとある商店で目的の砂糖を見つけるが、義母のへそくりをそっくりそのまま使ってようやく買えるほど。
店主には「この後もっと高くなるぞ」と脅されて渋々購入に至った。
地獄の沙汰も金次第ということだろうか。火事場泥棒という言葉も頭に浮かんだけれど、戦争という緊急時に皆が欲しがる禁制品を入手する経路を確保できている者は富み、消費者は搾取される。
このような局面では法律は機能しないけれど、その経済活動が多くの人の命を救い、絶望的な生活に彩を添えると考えたら目くじらを立てて非難することもできまい。
砂糖を手に入れて家に帰ろうとするが、相変わらず鈍くさいすずは道に迷ってしまう。
道行く綺麗な着物で香水をプンプン匂わせる女性たちに道を聞いても、「あっち?」「こっちよねぇ?」と適当な返事。
彼女らはこの近辺の遊郭で働く遊女だが、やはり「地獄の沙汰は金次第」なのである。
身を削って割のいいお金を手にして生活に余裕があれば、立ち居振る舞いも余裕だろう。道を聞かれても適当にあしらえばいい。自分の生活には関係がないのだから。
「都会の人は冷たい」ではないけれど、生活の温度差を感じさせる薄ら寒さがあった。
途方に暮れるすずに親切に道案内をしてくれたのは、遊女のリン。他の遊女とは違い、人の痛みを知っているというか、血が通ったリアクションが返ってくる。
恐らくリンは、すずが幼い頃に目にしたおばあちゃんの家の居候の女の子だったのだろう。すずが気を回してスイカを用意してあげるシーンがあり、これを想起させる言葉が交わされている。
辛い思いをした人ほど、他人に優しくできるというのは本当なのかもしれない。
「水原さん、うちはずっとこういう日を待ちよった気がする」
すずは幼い頃想いを寄せていた同級生の水原が水兵になったことを知っており、周作を港に迎えに行ったときに彼に会うことを恐れていた。
「夢が覚めてしまいそうで」
彼女が口にした言葉は、彼女の魂の叫びなのだろう。
水原に想いを寄せていたけれど、その恋は叶わず自分は遠く離れた呉に嫁いだ。義両親は自分を優しく受け入れてくれたし、義姉の径子は癖が強くキツイ性格だが仲良くはできている。そして、何の縁もなかった周作にも遅咲きの恋心が芽生え始めている。
自分で自分に言い聞かせていた。これが私の選択だと。自分の心にやっと折り合いが付きそうなところで彼に出会ってしまったら夢が覚めてしまう、と。
周作の取り計らいにより水原と2人きりになったすずは「こういう日を待っていた気がする」と告げ、感情を荒立てる。
水原のことは確かに好きだ、でも守らなければならない生活が自分にはある。
過去の想いを断ち切った彼女は、幼い頃の何も自分で決められない甘えん坊のすずではなかったのだ。
「お前だけは最後までこの世界で普通でまともでおってくれ」
すずの想いを知った水原は別れ際に言葉を投げかける。
自分の❝普通の日常❞は戦争、そして兄の死で消え去ってしまった。普通の日常を送っていたかったのに、ボタンの掛け違いでいとも簡単に崩れる儚さを知った。
そんな中で普通の日常をにこにこと穏やかに暮らすすずが水原には輝いて見えたのだろう。
お前だけは、最後までこの世界で普通でいてほしい。
この言葉の重みはずっと心に残っている。
まとめ
一応物語の中核になるようなネタバレは避けたつもりだが、未視聴の方でこの記事を読まれた方にも是非一度観ていただきたい映画である。
できれば金曜日の夜や土曜日あたりのバタバタしないゆったりとした時間に色々と思いを巡らせながら、飲み物でも用意してどっしり構えて観ることをお勧めする。
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