ようやく涼しくなって来たかと思いきや、また地獄のような暑さが戻って来ました。
今年の夏くん、本気すぎ。趣味の散歩にもなかなかいけない始末ですが、今から書くのは1週間くらい前の多少マシなときのこと。
近所をぶらぶらもいいですが、少し遠出をしてみるのも小旅行や冒険のようで楽しいものです。昔から、そう頻度は高くないですが、その日に思いついた地に足を延ばすという自分なりのイベントを実施しておりました。
前にも書いた奥多摩は、これをきっかけにその後何度も顔を出すようになりました。
今回はその思いつきによるお出かけ、名付けて『刹那的放浪』を記事にしていきたいと思います。
場所の選定は閃きに全てをかける
終点・始発駅がいいな
まず、場所を決めなくては。なんとなく地下鉄に乗って出かけてみたい。そして、降りる駅は終点がいいな。うーん・・・、
大江戸線の光が丘とかどうだろうか。我ながらいいチョイスだと思う。
放浪、すなわち目的を定めずに行くのだから、あまり知らない土地がいい。有名なショッピングモールがある、とか、そこにいったら必ず訪れるべき観光スポットがある、というような先入観がない方が楽しい。
うん。光が丘。謎に包まれておる。僕でも知っているのは、『光が丘公園』という大きな公園があるということくらいだ。それ以外はよく分からぬ。決定だ。
刹那的放浪のお作法
気ままにルールはない
刹那的放浪には明確なルールは存在しない。別に上記の光が丘公園に行ってはいけないわけではないし、何か成果を上げなくてはいけないわけではない。とにかく気のみ気のまま放浪できればそれでいい。
持ち物が重要
さて、放浪自体には縛りはないが、持ち物にはこだわりがある。まず①軽装であること、②時間を潰すアイテムを持つこと、である。
この条件を満たす持ち物、それは、財布(放浪を演出するために現金は少ない方が好ましい)、Suica若しくは PASMO、スマホ、ウォークマン、本(文庫が好ましい)、そこに個人的に御朱印帳と手拭き顔拭きのためのギャッツビーがほしい。これで完結。多すぎないのがいい。
SONY ウォークマン Aシリーズ 32GB ハイレゾ音源対応 ブルー NW-A16/L
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数年前に長いこと使っていたiPod classicが壊れてからは、ずっとこのウォークマン。通勤も外出の時も常に一緒。急に壊れたらどうしようと怯える日々。
読書は旅情をかきたてる
この日は、ウォークマンを聴きながら、『文人悪食』を読んでいた。
ブログ内でもそのうち紹介すると思うが、文学作品を読むだけでは知り得ない文豪たちの食の好みにスポットを当てた作品である。以前一度通読したのだが、また読みたくなって引っ張り出して来た。
道中で夏目漱石と森鴎外の章を読むことができ、朝食を食べていない当日の自分を恨みながら大江戸線終着駅の光が丘駅に到着。
散策開始
光が丘到着。まずは駅前散策。
整備された綺麗な駅、立派な駅ビルが隣接している。とりあえず買い物をするのならば、駅前で大体事足りるであろう充実度。
今回の放浪はこういうメジャーどころを後回しにして、ディープな光が丘の世界に浸りたいので、早々に駅前から離れる。
天候、快晴。放浪日和である。
駅を出ると目の前に広がるのは道路、青い空、白い雲、マンション、マンション、マンション、1つ飛ばしてマンション、ビル、ビル、ビル。駅前にとにかく色々なものが密集している。
駅近にマンションがあって、ここで全て完結する。
おまけに緑もいっぱいだ。こんな道が近所にあったら、毎日散歩したくなる。終点駅であるとともに、当然ながら始発駅なので、都心への通勤も楽々であろう。住環境として素晴らしいと思う。
駅から離れるうちに感じることがある。駅前が充実していただけに、
何もねぇ。
人っ子ひとりいない・・・
少し細い道を進むと、誰も歩いていない。完全な住宅街である。この日は土曜日で気温30℃を超えており、わざわざで歩く必要はないのかもしれない。それにしても人にすれ違わない。
自分が今どこを歩いているかは分からないけれど、世界を独り占めしているみたいで楽しくなってくる。
美術館。なるほど、そういうのもあるのか。
割と新しいところなのだろうか。それとも管理者の方の愛なのだろうか。とりあえず入ってみよう。
絶賛閉館中。
世間的にはお盆ということを忘れていた。仕方がないから他を回ろう。
人気の無い神社
お、神社あるやないか。すぐ近くにいいところ見つけたな。
こっちもお盆休みやないか。それにしても、これ(正式名称分からず)に水が入ってないところを初めて見た気がする。
社務所を始めとして境内には誰もいない。御朱印もらいたかったなぁ。とりあえず見ていこうか。
立派な神社だ。
このお賽銭入れ口から手が出て来たりしたら怖いなと思いながら、心ばかりの奉納をした。
三十数年前の8月に建立されたのか。この辺りは新興住宅地っぽいので、この神社を除いては周りの風景も随分様変わりしたのだろう。
お腹が減ったでござる
神社を出た後、少し大きな通りにぶつかったので、通り沿いに歩いてみる。時刻は12時。お腹が減った。ちょっとそこらで店があったら入ろう。流石にコンビニは味気ないから避けたいけど、それ以外ならどこでもいいかな。
歩く。歩く歩く。歩く歩く歩く。進めど進めど見えてくるのは住宅街。食事できそうなところは何もない。見つけ次第入るも何も店がないから仕方がない。
歩く歩く歩く歩く。
ようやく一軒見つける。寿司屋か。
しかし、ここには入らなかった。寿司の気分ではなかったのだ。
一軒飲食店が見つかったら、次の一軒もすぐに見つかるだろう。そんな安直な考えは見知らぬ土地では通用しないことをそのとき忘れていた。
唐突に現れた飴に人は心を狂わされてしまうのだ。
歩けど歩けど次の店は見つからない。先ほどの寿司屋になぜ入らなかったのか。なぜ次がすぐに見つかると思ったのか。逃がした魚は大きい大きいのである。
先ほどの寿司屋から1キロほど歩いたところだろうか。
この先には飲食店はない。泥沼にはまるだけだと判断して、また来た道を戻ることにした。
ただ、これで寿司屋に入るのは自分自身に負けてしまうので、
花壇に投げ捨てられた『おいしい牛乳』の紙パックを写真に収めることによって、悔しさをグッと堪えた。
『ゆきひら鍋』のパッケージの紙を写真に収めることによって、その悔しさをバネにすることができた。
『おいしい牛乳』は我が師であり、『ゆきひら鍋』は我が友である。
続きは後編で。