今朝いつもの道を歩いていると、数ヶ月前に閉店した居酒屋の跡地がコインランドリーになっているのに気づきました。
狭い店内ながらも、小粋な手の込んだ料理を出す隠れ家的な雰囲気のお店だっただけに閉店は残念。
跡地に何ができるかなと楽しみにしていましたが、まさかコインランドリーとは思いませんでしたね。スペース的に建物を活かせるのはそれくらいしかなかったと言われれば納得します。
跡地にできる施設として個人的な三大がっかりといえば、1位コインパーキング、2位1,000円カット、3位コインランドリーです。
どれが出来ようとも、「ちょっと覗いてみっか」とはなりません。
しかしながら、2位と3位の間には歴然とした差があって、コインランドリーに関しては「がっかりするけど、決して嫌ではない」という不思議な感覚があります。
需要と供給の狭間で
緑色が眩しい公衆電話
世間からの需要が小さくなったものは、少しずつ目立たなくなっていく。
例えば、電話ボックス。
携帯電話が普及する前は、公衆電話が出先での連絡手段・対話ツールとして第一線で活躍していた。
僕自身は公衆電話全盛時代を経験していないが、それでも20年くらい前は、駅や商店をはじめとして町の要所要所に緑色で目立つ電話ボックスが設置されていたし、利用者も多かった。
今となってはほとんど見なくなったが、当時はテレホンカードを多くの人が持っていたし、これを持つことによる安心感もあった。
そんな公衆電話も今ではなりを潜め、設置数は激減、色も鮮やかな緑色から茶色や灰色というような地味な配色になってきている。
しかしながら需要が完全に消え去ったわけでもないので、密かに町の片隅に存在し続けているのだ。
かつては栄華を極めた公衆電話が細々と暮らしている様は時代の大きな流れを感じさせるし、以前は人々の貴重な連絡手段として様々なドラマを生み出してきたのだろうと考えると感慨深い。
コインランドリーと人間のドラマ
ここで最初の話題に戻るが、コインランドリーについても数え切れないほどの人間模様を間近に見ながら存在し続けるという点で電話ボックスとよく似ているし、これこそ僕ががっかりしきれない理由である。
個人宅に洗濯機があるのは当たり前の時代であるし、僕がコインランドリーを利用するのも年に数回である。
梅雨時期にどうしても服を乾かしたいだとか、毛布にコーヒーを零してしまったので丸洗いしたいだとか、そういう場合だ。
それでは、コインランドリーの需要はさほど高くないかといえば、そうではない。
家の近所にコインランドリーはいくつもあるが、そのどれもが「そこそこの稼働率」なのである。前を通ると何かしらの機械が稼働しているし、その前でぼーっと座ったり、携帯をいじって時間を潰している人がいる。確かにそこに需要がある。
僕と同じように急に利用しなければならなくなった人もいるだろうし、日常的に利用している人もいる。
その理由は様々であろうし、そこに劇的なドラマも大したことないドラマもあることだろう。
もしかしたらコインランドリーでぐるぐる回る乾燥機を見ながらぼーっとするのが好きな人もいるかもしれない。
僕も雨が降りしきる中、乾燥機をぼーっと見つめるのは嫌いではない。
ドラマドラマと先程から連呼しているが、僕もコインランドリーで物思いに耽ったことがある。
引っ越す直前の寂しさ
あれは大学卒業を間近に控えて、上京から四年間お世話になった家から引っ越すときのとこだ。弱い雨が降っていた。
家財道具は全て引越し業者に引き渡し、残った少しばかりの荷物は段ボールに詰め込むだけ。
最後に家の周りを軽く散策して新たな家に向かおうと考えていた。
散歩に出かける際、なぜか靴下数足と下着を袋に詰め、当てもなくさまよって見つけたコインランドリーでこれらを洗濯して帰ってこようと思いついたのだ。
ふらっと歩いてみると、意外と近所のことを知らないことに気づく。
こんなところに小学校があったんだ、自販機があったんだ、抜け道があったんだ。
引っ越してきたばかりの頃は何もかもが物珍しく、暇を見つけては近所を散策していたが、それもいつしかしなくなった。
都会の開発サイクルは目覚ましく、数年経つとすっかり景色が変わってしまうこともザラだ。
もちろん変わっていない部分もたくさんあり、懐かしい気持ちでぶらぶら。
ふとコインランドリーが目に入る。
かなり年季の入った昭和中期あたりからありそうな内装。住宅街のこんなに入り組んだ場所にあったんだ。
先客は誰もいない。袋から洗濯物を取り出し、洗う。
静かな雨の音と洗濯機が回る音だけが響く。ぐるぐるぐるぐる・・・。
端に置いてあった丸椅子に座る。ぼーっと無心になる。
夢想、時の流れを掴める感覚
雨が降って少し気温が下がっているので、外の自販機でコーヒーでも買おう。
缶コーヒーをすすりながら目を瞑る。色々な人がこのコインランドリーを利用したんだろうな。僕みたいな貧乏学生が100円玉を何枚か持ってきて、ここで洗濯がてら暇を潰してたりするのかな。そのとき彼は何を考えていたんだろう。
そんな当てもない妄想をしながら時間はゆっくり進む。そして四年間の思い出をゆっくりゆっくり振り返っていく。
あの家に住むと決めたのは、四年前の今頃。
辺りは真っ暗な時間帯でどこに家があるのかわからなくて大家さんに迎えに来てもらったっけ。
駅からかなり離れていたし、急な坂道を登らなければならない。
お世辞にも通学に便利な物件とはいえなかったけど、優しいおばあちゃん大家さんと家の広さに惹かれてここにしたんだっけ。
初めての一人暮らしが楽しすぎて、ついつい夜更かししてゲーム。自堕落な生活してたっけ。
夜中喉が乾くと500mlのコーラ缶が100円で売ってる自販機まで買いに行ったっけ。
あの急な坂は今でも危険だと思ってるし、よくこの道を通ったな。
いつも大学に出かけるときに挨拶してくれた近所のおじいさんをここ数ヶ月見てないけど心配だな。
ぽつりぽつりと思い出していく。
なんとなくで同じ場所に住み続けたけど、僕はやっぱりこの町、あの家が好きだった。
終わってしまうのが悲しいけれど、こうして振り返ることができてよかった。
今後、公衆電話はさらに数を減らし、最後には消えてしまうだろう。
一方で、コインランドリーは無くなることはないと思う。少なくなっていく需要に応えながら、ひっそりと生き続けるだろう。そんなコインランドリーを僕は嫌いになれない。