宮沢賢治は、今更語ることもないほどに有名な日本の詩人、童話作家です。
代表作としては、『注文の多い料理店』、『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、『セロ弾きのゴーシュ』、『どんぐりと山猫』等々。
彼の感性は、自然との圧倒的な交信力であり、その天賦の才から生み出す作品に唯一無二の魅力を付加しています。
表現技法も独特で、文学的というよりも韻を踏んだ音楽的なリズムで物語がつづられることも多く、一般的な童話とは一線を画する独特な世界観を描いています。
その中でもひと際難解とでも言うべきか、非常に解釈に困る作品が『やまなし』という作品でして、その中に登場する「クラムボン」という存在をいかに理解するかについて、どこを探しても確たる解答が出てこないのです。
そこで今回は、この「クラムボン」について考察したうえで仮説を定立したいと思います。
『クラムボン』とはいったい何者か。
まず、問題の文章を抜粋してみる。
二疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳はねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』つぶつぶ泡が流れて行きます。
クラムボンは笑うらしい。
クラムボンは跳ねるらしい。
笑う理由はわからない。
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云いいました。
『わからない。』
クラムボンは命を持つ者らしい。
クラムボンは何者かに殺されてしまったらしい。
殺された理由はわからない。
クラムボンに関する表記は以上である。あまりに考察のための材料が少ないが、ここから『クラムボン』がいったい何者なのかを推測していく。
検証
- クラムボンは蟹の兄弟に認識される存在である
- クラムボンは笑う
- クラムボンは跳ねる
- クラムボンは命を持っているが、すでに殺されている
- なぜ笑うのか、跳ねるのか、殺されたのかは不明
これを前提に検証する。
クラムボンは生物ではない説
「笑う」「跳ねる」「殺される」。クラムボンは命を持った存在であるように思えるが、まずはこの点を否定しておく。
物語の中には蟹の兄弟の他に魚が登場するが、『お魚はなぜああ行ったり来たりするの。』との表現が存在することから、魚≠クラムボンであることは明確である。
また、その魚を狙う存在として「鳥」も登場しているものの、「鳥」は「かわせみ」であることが明言されているため、かわせみ≠クラムボンもゆるぎない。
流れる川の中で他の生命らしき存在としては、水中の微生物くらいのものだろうが、蟹の兄弟がそもそも認識することができるかが疑問である。
こうなると、作中に登場する他にめぼしいものといえば「泡」と「光」くらいのものである。
光説
クラムボン非生物説から派生して、クラムボンが水に差す光であるとする説について考えてみる。
確かに『光が跳ねる』というのは表現としてアリである。水面に乱反射して跳ねたり踊ったりするように見えるというのはなんとも文学的ではないか。
『光が笑う』はどうだろう。まばゆい光が水中に差し込む過程で屈折し、まるで笑っているようにゆらゆらしている。これも比喩としてはもっともらしい表現といえる。
『殺される』『死んでしまう』。太陽の光が雲で遮られてしまえば、光は消えてしまう。それを命と見立てて生死を見出すのも考えられないことではない。
ここまで考えてみると、光説は多少強引ではあるものの有力であるように思える。
しかしながら、蟹の兄弟は川底にいるのであって、「上の方や横の方は、青くくらく鋼のように見えます。」と表現されていることから、彼らのいる場所は水面から一定の距離があり、光が差し込まないのではないだろうか。
仮にギリギリ届く光だったとしても、それを「笑う」「跳ねる」と表現するだろうか。
クラムボン光説は、蟹の兄弟が認識し、表現する言葉からは乖離しているように思える。
泡説
対抗馬として、クラムボンは水中の泡であるとする説を検証する。
まず、「泡が跳ねる」という表現。水中で泡が生まれて、流れに揉まれて拡散していく。まさに「跳ねる」という表現が妥当である。
「泡が笑う」というのも泡がこぽこぽと流れて行く様から「まるで笑っているようだ」「踊っているようだ」と表現するのも不思議なことではない。
泡は水面に上がれば消えてしまうし、流れが強ければ潰れてしまう。これを生死で表現するのは極めて常識的な比喩表現であろう。
また、「なぜ殺されたか→わからない、知らない」という問答についても、自然現象の中で理由もなく生まれ死んでいくという様子が忠実にくみ取られているようにも感じられる。
「そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。」
これは水面に向かって登っていく泡を兄弟目線でとらえたものであるし、登っていく様が「笑っている」ようにも見えたのかもしれないし、「跳ねている」ように見えたのかもしれない。
『クラムボンは死んだよ。』
水面に到達した泡が消えたのだろう。泡の中の空気は水上の空気と混然一体となっただけで存在し続けるのだが、消えたのだから死んでしまう。形あるものが無くなるのは死である。幼い兄弟の目にはそのように映ったのだろう。
仮説
『やまなし』におけるクラムボンとは、水中の泡であると考えるのが妥当である。
もっとも、何故『泡』をわざわざ『クラムボン』と表現するかは謎であるし、作中にも「つぶつぶ暗い泡」と表現されていることから、泡=クラムボンで、つぶつぶ暗い泡≠クラムボンということを立証しなければならない。
とはいえ、消極的解法としてクラムボンは泡であるという説はそれなりに信憑性があるのではないだろうか。