今朝の通勤電車の中で堂々と電話している人がいたんですよ。
声自体は大きくないものの、断続的に聞こえてくる声。一方的な会話が耳に入ってきます。
静まる車内に漂う違和感と嫌悪感。
同じような感情を抱いたことがある方は多いと思います。
話している言語は明らかに日本語ではないので、外国の方だというのはすぐわかりました。
「電車の中で電話してはならない」
これは電車に乗る際の一般的なマナーとして周知されているところです。
しかし、『マナー』というのが曲者で、法的な拘束力だとか処罰をもって対抗できる『ルール』とは似て非なるものです。
法律で「電車の中で通話をした者は〇〇以下の懲役または××円以下の罰金に処する」という規定はもちろんないですし、運送人が定める普通約款である『運送約款』の中にも電車内で通話した人を排除するようなものはないのです(例:運送約款:JR東日本)。
あくまで「電車の中での電話マナー」は各人の良心のみに拘束される❝マナー❞に過ぎないのであって、注意をする側としては感情論に頼らなければならないわけですね。
「周りの迷惑だからやめなさい」
「本や新聞を読んでいる人や寝ている人の邪魔になるからやめなさい」
恐らくこんな注意喚起になると思います。
僕は最初にも書いたように電車の中で電話することに対する「違和感」や「嫌悪感」はありましたが、「迷惑」だとか「邪魔」はこれらに付随する程度の問題だと思います。
迷惑とは思うけど嫌悪感の方が強いという印象。
なぜ僕はマナーを守らない人間に対して嫌悪感を感じたのか、それを以下で考察していこうと思います。
そもそも電車の中で電話することは迷惑なのか?
電車の中では穏やかに過ごして目的地に到着したいけれど、電車に乗っているときに近くで電話をしている人がいたら迷惑だろうか。
それは確かに迷惑か迷惑じゃないかで言えば、当然迷惑だろう。
しかしながら、電車内で電話に匹敵する、あるいはこれを遥かに凌駕する迷惑行為も多々ある。
- 「あたし達、最強☆」と考えているような大声で話す女子高生の集団
- 「俺たち芸人よりも面白いやんなぁwww」と勘違いしている3、4人くらいの男子大学生たち
- 酔っぱらったおじさん2人組のくだまき
- 泣き叫び、走り回る子供とスマホに視線を落とし知らぬふりの親
思いつくままに挙げても迷惑な人はどんどん出てくる。
これらの騒がしさや酒臭さ、無責任さに比べたら電話で会話している人の声など可愛いものである。
なんだったら電車が運行する「ガタンゴトン」という音の方が煩いかもしれない。
迷惑ではあるけれど、迷惑さのレベルとしては大したことがないというのが正直なところである。
なぜ嫌悪感を抱くのか?
内輪ノリの寒さ
例えば、今あなたは大学の入学式に参加しているとする。
この後には新入生全員が出席する歓迎会が開かれる予定だ。
およそ100人いる新入生のほとんどは今日初めて会う者同士であり、この歓迎会で親睦を深めようじゃないか。そのように企図して開かれる毎年恒例の行事なのだ。
よーし、これから4年間付き合う仲だ。友達出来るといいな。そう思ってあなたは不安と期待に胸を膨らませていざ飲み会へ。
周囲の人とひと通り自己紹介をし合い、和やかに会は進行するものと思われた。
しかし、突如その中の数名が大声で内輪話を始めた。入学前にSNSを通して繋がっていたようだ。
「△△先輩にマージャン誘われててさー!」
「あ、俺も俺も!じゃあ□□先輩も来るの?」
「来るよー!!あの人マジで凄いよなぁ!」
「ああ、マジマジ!!この歓迎会の後も遊びにつれてってくれるんだって!」
「ねぇねぇ、△△先輩と□□先輩ヤバいって知ってるよねぇ?え、知らない?」
「あんなに有名なのにー!?今度紹介してあげるよー!」
内輪ネタで盛り上がるのはいいけれど、場が白けるのは間違いない。
ここは新入生同士の親睦を深める会なのであって、彼らしか知らない△△先輩と□□先輩を自慢する場ではない。
内輪ネタで盛り上がっていいのは、内輪。そうでないところでは控えめに。
電車の中、レストラン、学校など特定の場所に応じて構成員に期待された振る舞いがある。
要するにTPO。Time(時)とPlace(場所)とOpportunity(場合)を弁えるべきなのだ。
人は理解できない対話に恐怖する
人間は未知を畏怖する生物である。
未知を限りなくゼロにしようとする試みから生まれた人間の知識や知恵は、恐怖の対象である未知の克己であり、興味や探求心の発芽となる。
電車の中で2人の人間が対話している様子は、それが常識の範囲にとどまるものであれば日常のひと枠として何ら気に掛けることではない。
逆に全く理解不能の言語を無表情で交わす二人組がいたら、その会話がポジティブなものなのかネガティブなものなのかが明確ではないし、何かよからぬことを企んでいるのではないかと心中穏やかではない。
これと同じように電車の中での通話は傍目からは一方通行のコミュニケーションであって、会話の内容が断片的で一貫性を欠いているものであることが多い。
自然に耳に入ってくる言葉が、
「この人はお父さんで、自宅にいる子供にプレゼントを買っていこうとしているのか」
「この子は両親と仲が悪くて、ギスギスしているんだな」
とある程度把握できれば安心だが、断片的な会話から内容のおおまかな流れを把握できないものはやはり恐怖というか違和感を感じてしまう。
正確に表現すれば、❝気持ち悪さ❞である。
パブリックスペースにプライベートを持ち込まない
上記を踏まえると、電車の中での電話による通話は「騒がしさ」や「迷惑さ」が主たる要因となって嫌悪感を生じさせているとは考えにくい。
むしろ、電車の中という閉鎖された空間でのルールに対して自分のプライベートや内輪ノリを持ち込むということに対する違和感や気持ち悪さから発せられるものだと考えられる。
パブリックな場で通用している規律や暗黙の了解、いわゆる❝パブリックルール❞の侵害である。
「パブリックルールって漠然としているな」と思われるかもしれないが、あくまで自宅などのプライベートな空間とは違う立ち振る舞いをすべきというだけであって、「常に品行方正でいろ」だとか「他者の前では善行を積め」などというような崇高なものではない。
少なくとも閉じられた空間においては、各人に逃げ場が用意されていない以上、不快な状況から解放されることが事実上不可能だ。
そのため、路上だとか広い公園だとかの自己の意思で回避可能な場所に比べて禁止事項が多くなるのも致し方ない。それが秩序を守るということだから。
具体的には、「他者に迷惑をかける行為」のみならず「他者に迷惑をかける可能性のある行為」「間接的に不快感や嫌悪感を与える行為」も禁じられるべきである。
要は、「道端で電話するのとは訳が違うねんぞ」ということだ。
聞きたくなくても勝手に耳に入ってきてしまうし、目についてしまう。
これは他にも電車内のマナーとしてよく挙げられる「化粧」「飲食」の是非でも同じことがいえ、見たくもないものを見せられて、嗅ぎたくもない匂いを嗅がされるのはパブリックルール違反だぞということになる。
まとめ
電車の中での通話に嫌悪感を覚えるのは、電話という傍目から見れば一方的なコミュニケーションに対する違和感が根源である。
加えて、パブリックルールが支配する公共の場に内輪ノリやプライベートを持ち込み侵害することに対する不信感や疑惑に基づくものであると考えられる。
今回の件については、自身が理解できない言語を用いた会話であったことが拍車をかけていたが、たとえ日本語であったとしてもやはり嫌悪感を抱いたことだろう。