ずっと気にはなっていたのですが、他に色々と観たい作品があって延び延びになっていた映画『アラジン』を観てきました。
(https://www.disney.co.jp/movie/aladdin/about.html)
今回はその感想を書いていくわけですが、先に2点を伝えておくとするならば、
①非常にまとまりのある、完成度の高い実写映画であること
そして、
②ウィル・スミス劇場に乞うご期待ということ
となるでしょうか。
世界観が作り込まれていて没入感があり、観終えた後の余韻が心地いいことと「ウィル・スミスのイメージが鮮烈すぎる・・・」という一見背反し合うような事実がこれまた見事に混和しておりました。
それでは、以下で感想をどうぞ。
あらすじ
ダイヤモンドの心を持ちながら、本当の自分の居場所を探す貧しい青年アラジンが巡り合ったのは、王宮の外の世界での自由を求める王女ジャスミンと、❝3つの願い❞を叶えることができる❝ランプの魔人❞ジーニー。
果たして3人はこの運命の出会いによって、それぞれ❝本当の願い❞に気づき、それを叶えることはできるのだろうかーーー?(あらすじ・実写キャスト・吹替|アラジン|ディズニー公式)
あらすじをざっくりと補足しておく。
周囲を砂漠に囲まれた王国・アグラバーで猿のアブーと共にコソ泥をしながら生計を立てていたアラジンは窮屈な王宮での生活に嫌気が差した王女・ジャスミンと偶然出会い、恋に落ちる。
しかしふたりは王族と平民。決して結ばれることはないことがアグラバーの法典にも記載されている。
王族になれば、ジャスミンにプロポーズすることができるーー。
アラジンは、アグラバーの大臣を務めながら国の乗っ取りを企てているジャファーという怪しい男に唆されて、「どんな願いでも叶う魔法のランプ」を求めて清き心の持ち主しか入れないという「魔法の洞窟」に潜入する。
苦難を乗り越えてアラジンは見事にランプを手に入れ、王子の身分を手に入れる。その勢いのままにジャスミンを星空の下を魔法のじゅうたん駆けるデートに誘い、恋は成就するものと思われた。
しかし、アラジンが手に入れた王子の地位は魔法で手に入れた仮初めであり、これを押し通すことはジャスミンに真実を隠すことになる。
「このままでいいのだろうか・・・」、そんな葛藤を抱えながら日々を過ごすアラジン。
その最中、大臣ジャファーに襲われランプを奪い取られてしまう。願いを3つ叶えないうちに所有者が変わった場合でも、新しい所有者に従わなければならないのがランプの魔人の悲しい性。
欲望のままに自身の権力を拡大していくジャファーを打ち倒し、アラジンはジャスミンに真実を告げることができるのか・・・。
本作は、往年のディズニーの名作映画『アラジン』の実写化であり、基本的な内容は原作を忠実に再現している。
とはいえ、いくつか違いもあるため、気づいた限りではあるが以下で取り上げて考察してみたいと思う。
原作と実写化の相違点
①魔法の洞窟の仕様変更
原作では「魔法の洞窟に存在するランプ以外の財宝に触れること」が禁止されており、これに反すれば洞窟の守り人の逆鱗に触れて存在を消されてしまう。
しかし、実写版では「触ること自体はOK。持ち去ろうとしなければね」という仕様に変更されている。
洞窟には心の清らかな者しか入ることができず、財宝に目を奪われて悪い気を起こすくらいの矮小な人間は排除するという趣旨だ。
しかしながら、洞窟の至る所に金銀財宝が溢れている中で、それらに不意にぶつかってもいけないし、踏んでもいけないというのはあまりに現実的ではない。
「持ち去ろう」という明確な意思、❝不法領得の意思❞が発現した時点にアウトラインを持ってきたのは現代の常識に沿った変更と言えよう。
ちなみにアラジンと全然関係ないので読み流してほしいのだが、昔『RAVE』という漫画があって、その中で「クラッシュ・クッキー」という敵キャラが登場する。
クラッシュ・クッキーは触れるだけで周囲の物質を全て破壊する力を有しているため危険視され牢獄に閉じ込められているのだ。
「いやいや、牢獄破壊できるだろ」「地面破壊されてマントルまで突き抜けないか」と子供ながらに矛盾を感じたが、その類の話なのだろう。本当に関係ないな。
②女性関係をクリアに
アラジンが物語冒頭でコソ泥をして逃げるシーンでとある部屋を通り抜けることになるのだが、原作では明らかに「アラジンと何かしらの関係を持っている複数の女性たちの部屋」なのだが、実写版では「アラジンの知り合いではあるのだけれど、健全な習い事教室」に差し替えられている。
確かにジャスミンにプロポーズしたいという純粋な想いを持つ心清らかな青年のアラジンが「複数の女性と関係を持っているのかも・・・」という推測さえさせないように断ち切ったのだろう。
③鉄の掟の特例
アラジンがジーニーに願った一つ目の願いが「魔法の洞窟からの脱出」である。
ランプの魔人ジーニーが叶える願いは無制約ではなく、人の心を操って自分に惚れさせたり、死者を蘇らせることはできない。
二つ目の願いである「王子になりたい」もそれだけでは明確性を欠いているために実現することができず、「〇〇国の王子になりたい」というように誰もがイメージできるものでなければならない。
そして、魔法のランプを擦りながら「××を叶えてほしい」と明確な意思表示をしなければならない。
最後の明確な意思表示にかかるものとして、物語中盤にアラジンが手足を縛られたまま海中に突き落とされるシーン。
アブーと魔法のじゅうたんの機転により魔法のランプには触れているものの、水中なのでもちろん言葉を発することができない。そもそも意識を失っていたのだ。すなわち、願いを叶える条件は満たしていないことになる。
原作ではアラジンを助けたいジーニーが、意識を失ったアラジンを抱きかかえたときに首が前後したのを「助けてほしいのかい?→うん!」と解釈して無理くり実現している。
ここが実写版では、ジーニーが意識を失ったアラジンを操って契約書にサインさせ、意思表示としている(契約書の日付は前日)。
どちらも無理やりに変わりはないけれど、まだ実写版の方が無理のない設定なのかなと思う。
④鉄の掟の特例その2
「願いが明確でなければならない」という前述の二番目の掟であるが、物語終盤のジャファーとの対決で、ジャファーが「自分を宇宙で一番強い存在にしてくれ」と願っている。
これだけ聞いても宇宙で一番強い存在が、生命体なのかそれとも事象なのか、物体なのかが分からないので叶えようがない気がする。
原作では「宇宙で一番強い存在=なんでも願いを叶えるランプの魔人ジーニー」であり、ジャファーは明確に「自分をジーニーにしてくれ」と発言している。
結局この願いは実現して、めでたく魔法のランプに閉じ込められてしまうことになる。
実写版では願いは明確ではないけれど、グレーゾーンのやや黒い部分を白く解釈して適用したというような印象である。
総評
冒頭に書いたように、本作の評価は非常にまとまりのある完成度の高いものであったと感じている。
子供の頃に原作を観たときは、ジーニーの軽口や如何なる場面でもユーモアを忘れない姿勢が逆に軽薄に思えてあまり好きになれなかったが、何千年何万年も全能なるランプの魔人の足枷を付けられて目の前で欲望まみれの人間を見続ける苦痛を考えたら明るく振舞いでもしなければ気が狂ってしまうことは想像に難くない。
ジーニーというキャラクターが今になって大好きになったことに気づいた。
まぁ、そのジーニーというのも完全なる「青いウィル・スミス」なのであって、今後アラジンという言葉を聞いたときに最初に頭に浮かぶのは彼の姿なのだろうと思う。
はまり役を通り越して、ジーニーが最初からウィル・スミスだったような、不思議な感覚である。
この作品は是非とも映画館で観てほしいところだが、その際にはスタッフロールを注目していただきたい。
出演者の一番上に来るのはアラジンでもジャスミンでもなく、
ジーニー役 ウィル・スミス
なのだ。ウィル・スミスの、ウィル・スミスによる、ウィル・スミスのための映画。それが実写版アラジンなのである(ギャラ順なのかな?)。
まとめ
アラジン原作が好きな方、ウィル・スミスが好きな方、ド派手な演出が好きな方にはぜひぜひおすすめできる良作であった。
真っ直ぐで正当なラブストーリー。アラジンとジーニーの友情に触れる夏の映画。
現代風に見やすく、矛盾点も解消するという心意気が素敵である。
やっぱりディズニーは安定やな!