うたかたラジオ

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むかしの味@池波正太郎

映画を観る人もいれば、映画を観ない人もいます。

煙草を吸う人もいれば、煙草を吸わない人もいます。

ギャンブルをする人もいれば、ギャンブルをしない人もいます。

人それぞれに趣味嗜好があって、それが人間の多様性を生んでいるわけですが、どんな人間でもそれをしなければ生きていけないものがあります。

食べ物を食べること、ですね。

食に拘りがないだとか、好き嫌いが多いというのも個性です。

しかしながら、食べ物を接取せずに生活することができる人がいないのもまた事実です。

日常的に食べ物に接していれば、食に拘りのない人も食に対する思い出やエピソードの1つや2つ持っているでしょうし、逆に食に並々ならぬ拘りや執着がある人には固有の食に対する思い入れがあるものです。

今回は、池波正太郎さんの過去の生活と思い出が結びついている食べ物や店を綴る『むかしの味』というエッセイの紹介をしていこうと思います。

『むかしの味』

鮨ー銀座〔新富寿し〕

突然、「好きな食べ物を1つだけ挙げろ、それがお前の最後の晩餐だ」と最後通告を受けたとしたら、僕は迷わず❝寿司❞と言うだろう。

この世の中には美味しいものが溢れ返っている。

焼肉も旨いし、カレーも捨てがたい。さっぱりとした蕎麦や冷やし中華もこの時期良いな。いやいや、逆にこってりしたラーメンや揚げたての唐揚げなんて選択肢もある。

ただ、その中でも燦然と輝く存在が寿司であり、僕は最後の晩餐には寿司が食べたい。

さて、本編に入るとしよう。池波少年は渋いことにコハダが好きだったという。

昔は現代のように寿司ネタが豊富ではなく、目の前で一貫ずつ握って供するようなところは少なかったそうだ。

寿司の盛り合わせをとりあえず食べ、好みのネタを追加で注文するという形式。

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そして、現代の寿司と異なる点は「シャリが大きいこと」だ。

また、今のように、小さくにぎった飯へ厚切りのマグロが被いかぶさるようになっている鮨は東京になかった。

どちらかというと小判形に、にぎられていて、幼い子供たちは二つに包丁を入れてもらったほどだ(p.20)。 

確かに寿司のシャリは小さく、ネタは大きければ大きい方が見栄えが良くて上等というようなイメージが先行している気がする。

食事というよりも、ネタのおまけにシャリを食べて満足するという印象。

もちろんシャリが不味いのは、シャリとネタというシンプルな構成の寿司にとって致命的ではあるけれど、いまいちシャリが重要視されていない気がする。

ところで、鮨は何といっても、口に入れたとき、種と飯とが混然一体となっているのが私は好きだ。

飯の舌ざわりよりも、分厚い種が、まるで魚の羊羹のように口中いっぱいに広がってしまうような鮨は、私にはどうにもならない(p.26)。 

「魚の羊羹」とは実に的確な表現である。

刺身と寿司は全く違うものなのに、刺身メインで食べさせるような寿司が主流になっているのではないだろうか。

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ちなみに僕が最近絶大な信頼を寄せている寿司屋は、ネタもでかいがシャリもでかいという自己主張が強いものである。

豪快な寿司ネタの圧力は感じるが、それと同時にシャリの圧倒的存在感も確かにそこにあるので、食べ終わる頃には満腹だ。

寿司は酢飯と魚介を同時に楽しむものだよね。池波正太郎さんの意見には全面的に賛同できる。

 

鰻ー浅草〔前川〕

最後の晩餐は、うな・・・やっぱり寿司だな。

というわけで、個人的には寿司に次いで最後の晩餐候補に挙がる鰻。

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僕は別に裕福というわけではないが、「鰻が食べたい!」と思ったときにふらっと食べに行ける程度には蓄えがあるつもり。

人間、上を見たらキリがないけれど、好きなものを好きな時に食べられるくらいがちょうどいい幸せなのかもしれない。

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また食べに行きたいなぁ、鰻。

鰻というものは、この当時(安永年間、今より二百年ほど前のころ)のすこし前まで、これを丸焼きにして豆油やら山椒味噌やらをつけ、激しい労働をする人々の口をよろこばせはしても、これがひとつの料理として、上流・中流の口に入るものではなかったという(p.92)。

今でこそ丁寧に背開きされて、丹精込めて焼き上げてはタレにくぐらせ・・・とお姫様扱いの鰻だが、二百年ほど前は丸焼きにしたものを庶民のおやつとして消費していたそうだ。

丸焼きにして味噌や醤油をつけるというのは野性味溢れて、それはそれで美味しそうだが、現代の鰻とは全く違った味わいの代物だったことだろう。

近ごろ、大きな鰻料理屋へ行くと、前菜が出る、椀盛りが出る、刺身が出る、煮物が出る・・・というわけで、せっかくの鰻が運ばれてくるころには、私などは満腹になってしまう(p.95)。

僕はまだ鰻のコース料理を経験したことがないが、やはり鰻は鰻そのものをシンプルに心行くまで味わうのが一番だと思う。

横にあって嬉しいのは、お新香と肝吸い、あとは良質なお酒があれば十分。ここから足しても引いても物足らなくなってしまうだろう。

 

ポークソテーとカレーライスー日本橋〔たいめいけん〕

僕でも知ってるくらいに有名な日本橋のたいめいけん。

池波さん曰く、たいめいけんの洋食には、良き時代の東京の豊かな生活が温存されているという。

現代ほど豊富に食材が溢れているわけではないが、その中で最大限うまくて温かみを感じる料理を作るという心意気。

物質の豊かさではなく、心の豊かさが現れている。

たいめいけんの先代・茂出木心護氏は料理の付け合わせにこだわった。

彼はこう言う。

研究心が強ければ、付け合せは毎月変わっているわけなんです。

ビーフシチュー食べて、いつも人参の艶出しとジャガイモの半月形と板ザヤが付いていてはダメなんですよ。

今度行ったらロールキャベツの小さいのがついてたとか、シイタケがついてたとか、カリフラワーをチーズで焼いたのがついてたとか、毎月、変わっていなくてはね。

よくをいうなら毎日でも変えたいところです。

それでいて、ビーフシチューよりつけ合わせが買ってしまってはどうにもならない。

ビーフシチューが十のものなら、つけ合わせが八までいったらダメなんです(p.16)。

料理は常に変化し、進化していく。

多くの人が大したものではないと扱う付け合せにこだわり抜くことに心血を注ぐ料理人の魂。

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1枚の皿の上に乗っている全てが1つの料理であって、脇役で手抜きをすれば料理全体が手抜きになる。

高級なものをつけ合わせにすればいいということではない。心豊かに遊び心を持って真剣に料理に向き合う姿勢がそこにあるというだけだ。

 

まとめ

料理の良し悪しは素材や調理方法如何も大きく影響するが、最も大きく作用するものは「食べた人間を満足させてやろう、驚かせてやろう」「とにかく丁寧に丁寧に自分の腕を見せつけてやろう」「食材に真摯に向き合おう」というような心の豊かさ・粋な心なのだと思う。

実は池波正太郎さんの食のエッセイはもう一冊本棚にしまってあるので、こちらも読み終えたら記事にしたい。