うたかたラジオ

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全ては一瞬の芸術のために。映画『築地ワンダーランド』を観ました。【AmazonPrime】

僕は子供の頃から寿司が好きで、ちょっと贅沢をしようと思うと最初に浮かぶのは大体寿司。

テレビでもネットでも雑誌でもひっきりなしに「旨い寿司」が特集されていますし、漁の様子に密着したドキュメンタリーや芸能人のグルメ番組を目にする機会も多いですよね。

それだけ日本人の食生活に鮮魚は浸透していて、豪快に水揚げされる魚介や芸術の域まで磨き上げられた美しい料理に心奪われるのも頷けます。

その一方で、『仲卸』に着目したものを見かけることは極端に少ないと思いませんか?

仲卸は裏方の仕事であり、マニアックで映像として映えないので特集する難しさがあるためでしょう。

それをあえてメインテーマに据えたのが今回紹介する映画『築地ワンダーランド』です。

あらすじ

世界一の魚市場と称され、世界中のトップシェフから観光客まで多くを魅了する❝築地市場❞。

撮影困難といわれる築地に、初めて1年4ヶ月に渡る長期撮影を敢行。

そこに集う魚のプロフェッショナルたちの日々の営みと、彼らの使命感に満ちた 、熱き生き様に迫る。

豊かな四季と世界で唯一無二の市場の姿を通して、知られざる日本の食文化の神髄に迫る傑作ドキュメンタリー!

冒頭で英語によるナレーションが入るため、「ああ、この作品は世界に日本の魚文化を発信するためのダイジェストなのか」と感じてしまうが、その実、非常に内容が濃く日本人の心に深く突き刺さるであろう熱い男たちのドキュメンタリーである。

作品は約1時間50分に収められており、その3/4が仲卸から料理人に食材が渡るまでの様子、残り1/4が日本の今後の食文化への啓蒙という構成。

普段我々が何気なく食べているものは、生産者(映画で言うところの漁師)→流通業者→仲買人→小売店や料理人→消費者という段階を経て手元に届けられている。

この過程のいずれかで妥協が生じてしまえば、それなりのものしか届かないわけで、どこかで挽回できるものではない。

食物の終着点である「食事」は、食べてしまえばそれでおしまい。

ややもすれば10分程度で済んでしまう一瞬の芸術であるが、映画ではその一瞬に向けた各過程における情熱が描き出されているのだ。

 

印象に残ったシーン

俺は〇〇屋だから。

築地市場で仲卸をしている方々は、自分たちのことを「魚屋」とは言わない。

誰もが口を揃えて、「俺は穴子屋だ」「鮪屋だ」「乾物屋だ」という。

築地

フランス料理のシェフが総合職であれば、寿司屋の大将が寿司に特化した専門職だ。それと同じように仲卸にも細分化されたプロフェッショナルが存在し、彼らの言葉には一騎当千の説得力がある。

ひたすら穴子だけを、鮪だけを追い求めてきた自分だから、この仕事を失ったら何もなくなってしまう。

だからこそ鬼気迫るほどに自分の領域に真剣であるし、実力もプライドもある。

作中でも築地市場をぶらぶら歩いて求める魚を見つけようと思っても無理だと言っている。確かにどの店も血眼になっていい魚を仕入れているけれど、目的の魚だけに特化したプロがいるんだから、そのプロから買うのが一番いいのだと。

 

金儲けだけではやっていけないよね

商売の基本は、「安く仕入れて高く売ること」だ。

誰もがいいものを安く仕入れて高く売りたいと考えているはず。

ただ、築地市場の目利きのプロたちはそれだけで商売をしていない。もちろん上記の大原則が不要というわけではないが、それだけでは商売をやっていけないと発言している。

良いものを仕入れたから、お客さんが買いに来てくれるのではない。

お客さんが求めるものを仕入れるから、買いに来てくれるのだ、と。

プロの料理人は仲卸人との太いパイプを持ち、「イカならこの店で」「ウニならこの人から」と決めている。

魚

仲卸人はお客さんの要望を満たす存在であって、市場に上がって競りの対象になる魚がいかに高品質で惚れ惚れするものであっても、お客さんが求める品質でなければ競り落とさない。

例えば、「さっぱりした身質の鯖が欲しい」と言われたのに脂ノリノリの見るからに美味しそうな鯖を競り落としてきて、「これは旨いっすよ、おすすめです!」とは言えないはずだ。

お客さんのストライクゾーンにボールを投げ続けることが信頼につながり、商売は末永く繁栄していく。

市場に上がる魚は有限である。お客さんが欲しいものであれば高くても競り落とす。お客さんがどうしても今日欲しい魚があるといえば、必死の思いで入札する。

商売は人と人とのつながり。金儲けだけではやっていけないのが築地での暗黙のルールなのだろう。

 

食べることの大切さ

近年、「食育」ということが盛んに叫ばれている。

食は人間の生存に不可欠であり、日々の食事を通じて自然と習得していくであろう❝食べる技術❞をあえて取り上げて学ばせようとすること自体がかなりの末期である。

作中でも言われているように、最近の子供の味覚は甘い、辛い、酸っぱい、苦いという基本的な味を正確に感じられなくなってきている。

それは子供たちだけの問題ではなく、食を軽視してきた親世代の責任でもある。

食事は栄養の摂取の他にも見る楽しさや食べ進めていく楽しさ、季節を感じ想いを馳せる楽しさがある。

四季

最近は夏が長く、春と秋が極端に短いように感じられることも多いが、日本には明確な四季が存在し、その時々の「旬」の食材が市場をにぎわせる。

「今がちょうど旬だから美味しいぞ」「この時期は旬じゃないからイマイチかも・・・」、そんな会話ができるのも日本人の特権であり、誇らしい点である。

しかし、周りを見回してみるとどうだろう。いつでも食べられる食材を使った画一的に味付けられたもの、インスタント食品、コンビニ弁当、ファーストフード、そういったものが溢れている。

もちろん、時間がない時は重宝するし、僕も仕事帰りにチェーン店で変わらぬメニューを安心して食べることもよくあることだ。

これが近代化。時代の要請であり、食にかける時間を減らして、その分労働や余暇に宛てることが能率的だと考えられてきた。

ただ、それが当たり前になっていることは危惧しなければならない問題だろう。

サッと買って、パッと食べる。テレビでも見ながら、スマホでもいじりながら、雑誌でも読みながら片手間に食べる。

食事とは本来そのようなものなのだろうか。いや、違う。

ちなみに、僕は飲食店でスマホを凝視しながら食事をする人間が大嫌いだ。

基本的に人の食のマナーには口を出さないが、これだけは許せない。

それ、何食べても同じでしょ?

ハンバーグでもパスタでもラーメンでもミキサーにかけて液体にして飲めばいいじゃないか。飲んだらスマホでソシャゲやSNSを楽しんだらいいじゃないか。

こんな人たちが親世代になったら、食の楽しみを伝達することなんて不可能だ。

『築地ワンダーランド』の〆で日本の食文化に対する警鐘を鳴らしたのは高く評価したい。

 

まとめ

最初こそ安っぽいドキュメンタリーを心配したが、進むにつれて骨太で壮大な築地のドラマを見せつけられて圧倒されてしまった。

魚を獲るプロ、仕入れるプロ、目利きのプロ、調理するプロ。彼らが繋いだバトンが我々に美しく、美味しい料理を運んでくれるのだから、全ての感謝し食を楽しまなければ罰が当たってしまうだろう。

感受性豊かに丁寧に暮らす。本当の意味での「生活の質」「生活の余裕」とは何なのかをもう一度改めて考え直す局面に来ているのだと思う。