当初は観たい映画リストに入っていなかったのですが、周りの評判を聞いて『検察側の罪人』を観てきましたよ。
ここから下はネタバレを含むものですので、観覧予定の方はご注意ください。
初めから辛口
まず、作品全体から感じたこと。いきなりマイナスポイントで申し訳ないが、色々詰め込みすぎて全てが雑になってしまっている点が気になった。
原作の小説は読んでいないが、恐らく120分という映画の枠に落とし込むためにやむなく削った部分が多いのだろう。「そこをそんなに雑に片付けちゃうの?」「ここにもっとスポットを当てたり、じっくり溜める時間を割くべきじゃないか?」という場面が散見される。
物語序盤はとにかく駆け足で、専門用語が飛び交って訳も分からないままストーリーが進んでいく。本来ならば、ストーリーに大きく絡んでくる『冤罪』や『時効』に対して主人公たちがどのような考えや意見を持っているのかを匂わせておいて、そこに自分の正義とどうやって折り合いをつけていくかというような流れが必要だったのではないだろうか。
冤罪と時効
ここで僕自身の刑事訴訟における『冤罪』や『時効』についての考えを述べておきたい。
刑事訴訟法第1条
この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障を全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。
目的は上記の通りである。つまり、①真実発見と②適正手続の保障の二つが刑事訴訟法の解釈における柱であって、当然『冤罪』や『時効』の考えもこれらによって立つものである。
冤罪
まずは『冤罪』から。法の古い格言にこのようなものがある。
たとえ十人の真犯人を逃したとしても、一人の罪のない者を処罰してはならない。
いわゆる『無辜(むこ)の不処罰』である。この格言の意味するところは、十人の犯罪者を野放しにすることは確かに司法に対する信頼を貶めるものではあるが、それ以上に一人の無実の者を冤罪により処罰することは、刑事訴訟法の目的とする真実発見の趣旨を没却するほどに重大な瑕疵であるため許されないということである。
善良な市民が身に覚えのない罪をなすりつけられて、見せしめに刑罰を受けるようなことはあってはならない。もしそのようなことがあれば、人々は安心して日々の生活を送ることができなくなるし、司法への信頼もなくなった秩序なき世の中になるだろう。
冤罪を予防すべき根拠は、真実発見である。処罰の延長線上に真実があるのではなく、真実発見の延長線上に処罰があるということだ。
時効
次に『時効』。時効を設ける理論的根拠としては、(1)犯罪の発生後、一定の期間が経過することにより社会一般の処罰感情や復讐感情が低減し、関心も薄れることから、犯人に対する国家権力による処罰の必要性がなくなるという説(実体法説)、(2)時の経過により犯罪を立証するための証拠物の散逸や証明力の低下により公判における事実認定が困難になる。このような不十分な証拠により犯罪を認定することは真実発見、適正手続の保障の観点から望ましくないため、その可能性を排除すべきとする説(訴訟法説)、(3)前二者の中間をとる説(折衷説)などがある。
僕は折衷説の訴訟法説寄りの考えだが、自身や身近な人が犯罪被害者になっていた場合に実体法説には手放しには賛同できないであろうことは理解できる。
社会一般の処罰感情なんてどうでもいい。自分は絶対に許さないし、忘れない。そう考えるだろう。
しかし、時の流れとは残酷なもので、重大事件発生時にはマスコミが大きく持て囃し、「ああ、なんて痛ましい事件だ、凄惨だ。許せない!犯人には極刑を!」と世間に復讐感情が溢れかえる。
それから数日、数週間、数ヶ月、数年・・・。どんな重大事件であっても、「あー、そんな事件あったねぇ。ん?まだ解決してないんだっけ。酷いねぇ。あ!借りたBlu-ray返してなかったんだった!」、世間の関心としてはこんなものだろう。
事件当事者はやり切れないだろうが、世間で事件が風化していく中で日々新たな事件が発生していく。有限である捜査員を解決する見込みの薄い事件に割くよりも証拠の散逸していない事件に集中した方が効果的だろう。それでも自分の感情が収まらないから他の捜査をやめてこっち向いてよなんて言ったら、それこそ劇中で暴走した最上検事(木村拓哉)のようになってしまう。正義の鉄槌の矛先を間違えてはいけない。
「とにかく許せないから犯人を見つけて処罰したい」、この考えは人間の感情としては自然だが、それと同時に凶暴性と危険性を孕んでいる。視界を遮り、正常な判断ができなくなる。独りよがりの正義。これを独善という。
感情に任せて不確かな証拠により事実を歪めてストーリーを作り上げる。結果有りきで塗り固めたその道に真実などあろうはずがない。
ここはドラスティックに考えるべきであり、刑事訴訟法の目的である真実発見及び適正手続の保障を実現するために、証拠の散逸した状況で事実認定をすることは冤罪を生み出す恐れがある以上打ち切るべきという訴訟法説に傾いてくる。
刑事訴訟の証拠調べの基本原則である違法収集証拠排除法則は、適正な手続きを経て取得されたもののみを証拠能力ありとして裁判の場に上程するものである。これが出自の怪しい不確かな証拠で真実(なるもの)を歪めた形で認定されるのを未然に防止するためのものであることからも、同説をベースに考えるべきではなかろうか。
色々と惜しい作品
と書き始めてしまうとキリがないので映画の内容に戻るが、このような『冤罪』や『時効』に対する主人公たちのスタンスが提示されていなかったため、「自分の信じていた正義は確かにあったけれど、実際に対峙してみたら違った。どうする、信じた正義を貫くか、もう一つの正義を信じるか」という葛藤がない。とりあえず私情で突っ走って「これが正義だ」と言われても、ただの独善じゃんと冷めてしまう。
最初にも書いたが、要所要所の落とし所が雑で納得がいかない。
最上検事が沖野検事(二宮和也)に「直情的で・・・」と小言を言うシーンが何度か登場しているが、最上検事自身も私怨に支配されて職権逸脱行為を行い、更には直情的に犯罪に手を染めていく。沖野検事も直情的に違法収集証拠の作成に加担、仕事を辞め、自己の正義という大義名分で職務上知り得た情報をダダ漏れさせる。その結果、冤罪を防ぐことができたが、その被告人(まだ被疑者?)は事故で死亡。今回の事件については無実だが、過去の許されざる罪を償いなさい。時効は完成しても逃げられないよとでもいうのだろうか。とりあえず勧善懲悪。とりあえずハンムラビ法典。雑すぎる。
次々に関係人物が出てくるが、そのほとんどが相互に何の関連性もなく、ドタバタで物語が進む。橘事務官(吉高由里子)の編集者との密会のシーンいる?暴露本の設定自体いる?最上検事の家庭の描写は何を表現したかったの?最上の友人丹野の下りはそもそも蛇足では?何が伝えたいのかが全く見えてこなかった。
まとめ
最上検事は復讐の鬼となり、自己の正義を貫く過程で次々と悪に手を染める。沖野検事の正義も単なる独善であり、検事の職を捨てて得たものが汚れた正義。恐らく最上検事に消される。真犯人は死亡。危うく冤罪から逃れた者も過去の罪を償わせるために死亡。救いがないし、説明がない。
悪いところばかり書いてしまったが、テーマとしては非常に考えさせられるところで、俳優陣の演技もこれを盛り立てる熱演であった。もう少し練った形で、できれば1クールのドラマで隅々まで描き切っていれば違う印象を持ったに違いない。
ちなみに個人的MVPはブローカーの諏訪部を演じる松重豊氏。飄々としていて凄みもあって、ユーモラス。根っからの悪役ではあるけれど、憎めなくて有能。むしろカッコイイ。ダークヒーロー。
「諏訪部は犬になります」
めちゃくちゃ頼りになるおじさんだ。まさに闇の住民である。
俳優陣の演技が良かっただけに全体のちぐはぐさが誤魔化されていた印象であり、色々と惜しい作品であった。
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