この本、ずっと読みたかったんですよね。
東海林さだお先生の『ガン入院オロオロ日記』。
僕が氏の作品を読むきっかけになった「丸かじりシリーズ」は単行本が文庫化するまでにおよそ3、4年かかるのですが、どんなに最新シリーズが気になっても必ず文庫になってから読むというのを自分ルールにしております。
↑僕と「丸かじりシリーズ」との出会いを書いた記事です。
今回紹介する『ガン入院オロオロ日記』は、いわゆる「男の分別学シリーズ」に分類され、こちらも同様の周期で文庫化されており、2017年3月13日から約2年半待ちました。
作品のタイトルお分かりの通り、氏は今から4年前の2015年10月下旬頃に受けた健康診断で血液の腫瘍マーカーの数値が異常に高かったことがきっかけで精密検査をし、医師からガンを宣告されています。
氏は80を超えた現在も現役バリバリで創作活動に精を出していることからも、ガンに見事に打ち勝ったことが分かるのですが、その時の入院の様子を描いた本作が読みたくて読みたくてたまらなかったわけです(「初めて単行本で読んでしまおう」とも考えておりました)。
そんな本がようやく解禁ということなので、早速読み終えまして、ここに感想を残しておきたいと思います。
『ガン入院オロオロ日記』
初体験入院日記Ⅰ がんと過ごした40日を振り返る
都内のT病院を紹介してもらって検査をすすめていくと、担当の医師が、
「がんですね」
と、特に声をひそめたりすることなく、ふつうの声で言う。
どうやら今はそういう時代になってきているらしい。
そう言われて僕は何と答えればいいのだろう。
「それは困ります」
と咄嗟に声が出かかった。
だが、この問題は「困る」「困らない」の問題ではないのだ。
相手は、
「そうですか」
以外の言葉を期待しているわけではない(「がんと過ごした40日を振り返る」p.12)。
相変わらずのさだお節と言うべき滑り出し。
「がん」は今や珍しい病気ではなく、現代人の2人に1人は何らかの形でがんにかかるとも言われている。そして生涯におけるがんの死亡リスクは男性が約25%、女性が約15%程度。
罹患する部位や進行の具合によってこのパーセンテージは変動するが、一般的には「がん=死」であり、「がんですね」と冷静に言われたら「そうですか」と返すより他ないだろう。
ウンウン唸っている人も、ゼイゼイ言っている人も、放屁し放題の人も、実社会に戻ればいずれも地位も名もある人で、我慢をすべきときにはちゃんと我慢をし、忍耐すべきときには忍耐を心がける人のはずなのだが、ここではそういうタガを誰もがはずしている(「がんと過ごした40日を振り返るp.21)。
約4時間の手術を終え、患部である肝臓の10分の1を完全切除。他の臓器にも転移なく、輸血もせずに無事がんとはおさらば。
引用部は氏と同じように手術を終えた患者たちが集まるICUでの光景である。
手術後の痛みでウンウン唸る人も、息苦しさからゼイゼイ呼吸する人も、手術後に腹部に溜まったガスを逃がすため放屁する人も皆生きることに精一杯で、他人からどう見られているのかはもはや関係がない。
しかしながら彼らも日常から非日常に放り込まれた同じ境遇の者であり、日常ではそれなりの要職だったり権威を持っている人なのかもしれない。
普段だったら身体が痛くても人に悟られぬように耐えしのぶだろうし、人前で放屁をしまくるというのも決して許しはしないだろう。
それだけ病院という空間は特異であり、生と死の前では人は平等だと思い知らされる。
初体験入院日記Ⅱ 病院は不本意でいっぱい
手術をしたあと、しばらくの間はドレーンで膀胱から直接尿を外に出すことになる。
外に出した尿はビニール袋に貯めておく。
イルリガートルにはその袋も積んである。
イルリガートルを引っ張って歩くということは、その袋を人々の目に晒しながら歩くということになる。
この袋が恥ずかしい。
特に袋にいっぱい貯まっているときが恥ずかしい。
(こんなにたくさんおしっこをしました)
ほんの少しなら何とか言い訳ができそうな気がしないでもないが、袋に一杯となると言い訳ができない(どういう言い訳か)。
色も恥ずかしい。濃いと恥ずかしい。
濃いとなぜ恥ずかしいのか、自分でもよくわからないのだが、薄いとあんまり恥ずかしくない(「病院は不本意でいっぱい」p.27-28)。
まずは気になる「イルリガートル」。病院で見かける、いわゆる❝ガラガラ❞である。
点滴の袋やら酸素ボンベが載ったワゴン的なあれ。
患者にとってイルリガートルに積載されている物品はどれも必要不可欠のものであり、れっきとした医療器具である。
何が恥ずかしいものか、と思ったが、確かに尿の入った袋が見られてしまうのは恥ずかしいのが分かる。そして、色が濃いと恥ずかしさが倍増するのもよく分かる。
まぁ、入院なんてものは不本意の連続だろう。
そもそも入院するのが不本意だし、血管に点滴を注射されているのも不本意だ。好きなものを食べられないのも不本意で、夜も消灯時間が設定されているのも不本意である。
加えて、黄色い尿でパンパンの袋を衆人の監視下に晒すとは何事か。不本意、不本意でござる。
不本意は人生の一大テーマである。
人生は不本意の連続である。
人生は不本意だらけである。
そうして入院生活は究極の不本意である。
毎日毎日不本意なことばかりやらされる。
注射が不本意である。
その不本意を何本も打たれる。
病院という建物から外に出られない、というのも不本意である。
レントゲン検査室の前で何十分も待たされるのも不本意である。
ガラガラをガラガラ引っぱって歩くのも本意ではない。
入院ということも本意ではない。
そもそも、病気になるということも本意ではなかった(「病院は不本意でいっぱい」p.37)。
不本意に押しつぶされそうになった氏は、不本意を人生にまで敷衍する境地にまで辿り着いた。
その不本意にとどめを刺した出来事。
普段食事をするときは、その日の気分だったり(「昨日テレビで美味しそうな親子丼を見たな・・・」)、体調だったり(「昨日飲み過ぎたから、さっぱりした蕎麦がいいかな・・・」)、他の要因だったり様々な要素が複合的に絡み合って、メニューを決定する。
↑やはり食と氏は切り離せない。
カレーが食べたいからカレー屋を探し、チキンカレーがいいかなと判断してチキンカレーを注文。念願のチキンカレーが運ばれてきて、無事食事にありつける。
しかし、病院ではどうだろう。
本人の意思に関係なく、いきなり「カボチャの煮付け」が現れるのだ。
カボチャの煮付けが!
いきなり!
何の予告もなく!
でも、いざ目の前にいきなりカボチャの煮付けが現れても、意外とすんなり食べられてしまう。
人間とはそういう生き物なのだ。不承不承でも結構いける。なんだったら結構うまい。
不本意に飼いならされたと言うことなかれ。これが入院だ。不本意の塊なのだ。
初体験入院日記Ⅲ ヨレヨレパジャマ族、威厳ヲ欲ス
入院生活が二十日を過ぎたあたりで、
「いろんな人が入院してきて、いろんな人が退院していったな」
という感慨を持つ。
そうなると、ごく自然な形で、古老意識のようなものが芽生えてくる(「ヨレヨレパジャマ族、威厳ヲ欲ス」p.39)。
廊下ですれ違って別に会話するでもなく会釈だけの関係だとしても、病院という狭く特殊な空間の中では仲間意識というか民族意識のようなものが知らぬ間に形成されていて、退院する仲間を見れば「ああ、無事でよかったな」「これで少し寂しくなるな」と感じるのだろう。
入院も長短あって、ほんの2泊3泊のものもあれば、氏のように1ヶ月を超える人もいる。
長く入院していれば、嫌でも病院内のあれこれに精通して何だか偉くなった気がするのもなんとなくわかる。
自分が歩いてきた道をこれから人が歩いていくのか・・・と勝手ながらに思うのだろう。
病院には階ごとに「患者だまり」というような休息コーナーがあって、いつも五、六人がここで新聞を読んだり、読書をしたり、ケータイをかけたりしている。
全員パジャマ姿である。全員ヨレヨレである。全員頭髪が乱れっぱなしである。
中にはボタンを掛け違って、スソのところが段違いになっているのもかまわず、ただひたすらグッタリしている人もいる。
何しろ挫折の人々であるから、もう欲も得もない、髪もプライドもない、それどころじゃないんだ、という表情で居並んでいる(「ヨレヨレパジャマ族、威厳ヲ欲ス」p.43-44)。
入院する前はパリッとしたスーツを着て、ワックスできちっと髪をセットしていた敏腕のサラリーマンも患者だまりでは見る影もなくうなだれている。
しばらくパジャマ以外着ることもないからよれよれでも別に構わないし、髪をセットしても寝ていたらぐちゃぐちゃだ。女性も病院で気合の入ったメイクをし続けるとも考えられない。
ただひたすらにヨレヨレでボロボロで。それでもお見舞いに来た家族や同僚の前では少し繕って日常を想起するのかな。
「人は見かけじゃない」とよく言うけれど、日々余裕があってビシッと外見を決めている人にはビシッとした魂が宿るのだろう。
まとめ
「入院」、しかも「がんによる入院」をテーマにしているにもかかわらず、いつものように独特な視点とユーモラスな言い回しでクスッとさせる東海林先生は流石だと思う。
かと思えば、病院特有の世界、検査や院内の他の患者の様子、食事風景など体験した者でなければ分からないような情報を精緻に鋭い視線で観察されているのが印象的だった。
入院関係のお話は上で紹介した3話で完結し、残る200頁ほどは「大人の分別学」から厳選した作品で構成されており、こちらも見ものである。
東海林先生にはいつまでもお元気で肩の力を抜いて読める素敵な作品を世に送り出し続けてほしいと心から願っている。